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野田 英夫(のだ ひでお、1908年7月15日 - 1939年1月12日)は、洋画家。アメリカ合衆国生まれの日系人。 == 略歴 == 1908年(明治41年)、カリフォルニア州サンタクララ郡アグニュー村(Agnew, 現・サンタクララ市)で、熊本県出身の日本人移民・野田英太郎とセキの二男(第二子長男?〔)として生まれる〔熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年、p647〕〔ときの忘れもの/(有)ワタヌキ、2011年4月14日〕。英語名はベンジャミン・ノダ〔紀野一義、PHP研究所、1997〕。当時、アグニューや近隣のアルビソなどサンノゼ郊外は、ベリーなどの農産物耕作に携わる日本人移民の中心地だった〔Garden of the World: Asian Immigrants and the Making of Agriculture in California's Santa Clara Valley Cecilia M. Tsu, OUP USA, Jul 18, 2013 〕。 3歳のときに父の郷里熊本の叔父・羽島徳次に預けられ、熊本師範付属小学校、旧制熊本県立熊本中学校卒業後に帰国し、1929年にアラメダ郡のビードモント高校を卒業、アメリカ人家庭のスクールボーイとして働きながら絵を学び〔、カリフォルニア・ファイン・アーツを中退、1931年にニューヨークに出てウッドストック芸術村で開かれていたアート・ステューデンツ・リーグの夏季講座に参加し、同校教授や国吉康雄の支援を受け、壁画・テンペラ画を研究した。ここで知り合ったアメリカ人のルース・ケルツと同年に結婚し〔、ニューヨーク16th street のアパートで、貧しいながらもウォーカー・エバンスら若いアーチストらと交流しながら暮らした〔Red "Walker Evans" James R. Mellow, Basic Books, Jan 7, 2008 〕。共産党系の革命的作家集団「ジョン・リード・クラブ」に参加し〔history interview with Bernarda Bryson Shahn, 1983 April 29 Archives of American Art, Smithsonian Institution 〕、スコッツボロ事件(1931年に起こった黒人少年に対するでっち上げ裁判事件〔日本大百科全書〕)を題材にした作品「スコッツボロの少年たち」で注目され〔“Hideo Noda” Entry on Wikipedia Official website of Whittaker Chambers、2014.12.01〕、美術賞受賞や美術展出品、壁画制作などが続いた。当時アメリカでは公共事業促進局の連邦美術計画により、壁画などのパブリックアートの発注が盛んだった。 1933年(昭和8年)には、アメリカ共産党と関係をもちながら、ニューヨークでディエゴ・リベラの壁画制作の助手をつとめたが、翌年には再び来日、二科展に出品した。 一時アメリカに戻った後は、新制作派協会会員として活動したが、ルースと訪ねた黒姫で制作中に目の不調を訴え、翌年帝大病院で脳腫瘍のため早逝した〔。ルースはすでに帰国していたが日本の親族に看取られ、宇土郡不知火村永尾二本松(現・宇城市不知火町永尾)に埋葬された〔。版画家野田哲也は甥にあたる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野田英夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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