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金乃花 武夫(かねのはな たけお、本名:金井 武夫(かない たけお)、1936年10月11日 - ?)は、神奈川県横浜市鶴見区出身で、出羽海部屋に所属した大相撲力士である。最高位は西小結(1962年9月場所)。現役時代の体格は181cm、119kg。得意手は右四つ、突っ張り、小手投げ、首投げ。 == 来歴・人物 == 地元の横浜市立寺尾中学校に在学中は野球で鳴らし、後に中央大学やプロ野球の大洋ホエールズなどで活躍する桑田武と同じチームでプレーした(因みにチームでのポジションは、金井が一塁手、桑田が三塁手であった)。しかし、チームメイトの先輩で後に東映フライヤーズに入団する稲垣正夫(※但し、稲垣がフライヤーズに入るのは、金井が大相撲入りして以降の事である(1956年暮れ))の実兄と出羽海部屋後援会の幹事が親友同士であった事が、その後の運命を変えた。 同部屋に身を寄せていた元関脇・大戸平の尾車親方の勧誘を受け、1952年5月、15歳で出羽海部屋に入門。 同年5月場所で初土俵を踏み、翌9月場所、「金ノ花」の名で序二段に付いた。「金ノ花」の四股名は、尾車が現役時代、「大戸平」に改名する前に名乗っていたものである(本名の「金井」と当時の出羽海親方(元横綱・常ノ花)の現役名から名付けられた、という説もある)。 以来順調に番付を上げてゆき、1957年5月、20歳で新十両昇進。1958年1月場所では東十両9枚目で11勝4敗と大きく勝ち越し、翌3月場所、幸運な新入幕を果たしている(本来十両9枚目から幕内に昇進する為には12勝以上が必要で、11勝止まりでは入幕は難しく、自身も「3月場所では、入幕への足固めを…」と考えていた。この幸運にあり付いた理由には、同場所より前頭の人員が2人増えた事が挙げられよう)。 それから暫くは幕内下位と十両との往復が続いたが、次第に幕内に長く定着する地力が身に付き、1961年7月場所から1963年11月場所までの15場所・約2年半は三役~前頭上位で活躍。1962年7月場所では、横綱・大関との対戦圏外ぎりぎりである前頭6枚目の地位で、10勝5敗と2桁の勝ち星を挙げた。この好成績により翌9月場所では、最高位となる西小結に昇進したが、4勝11敗と大きく負け越している。なお、三役経験はこれが最初で最後である。 敢闘賞受賞のチャンスは2度あったがともに逸し、以降も好機なく、取り口の地味さも相俟って一度も三賞を受ける事はできなかった(他に惜しかったのは1962年1月場所で、5日目にこの場所13勝2敗で優勝した横綱・大鵬を捨て身の小手投げで倒しながら6勝9敗と負け越し、殊勲賞のチャンスを逃している)。また1963年3月場所では、初日に新大関・豊山を下している。 横綱昇進直後の佐田の山の土俵入りで、露払いを務めた経験がある(1965年3月場所。以後、同年9月場所まで務めた)。 1966年以後は、十両に腰を据えるようになり、体力の衰えも手伝って次第に番付も下がっていった。 東幕下筆頭の地位にて初日より休場した1967年9月場所を以って、30歳で引退。 引退後は日本相撲協会に残らず、東京都品川区大井で小料理店を営んだ。 その後、病没したとの情報があるが、亡くなった時の年齢や没年月日は判明していない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金乃花武夫」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kanenohana Takeo 」があります。 スポンサード リンク
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