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金光 等平(かなみつ とうへい、文化7年(1810年) - 明治11年(1878年)12月31日)は、岡山藩士。通称は、乙吉のち清右衛門、晩年は等平。諱は、幸知。禄高は、四十五俵四人扶持(四公六民の年貢の基準で言えば、110石程度の価値に相当)のち知行130石。 == 経歴 == 金光清左衛門の次男として生まれる。 文政3年(1820年)、父が病死したため跡目相続し、土肥右近(番頭・4200石)の組下となる。文政10年(1827年)12月28日、前髪を落とす(元服)。文政11年(1828年)12月16日、清右衛門に改名。文政12年(1829年)より御城御番役となる。 天保6年(1835年)1月6日に御普請加奉行、天保11年(1840年)7月6日に御蔵奉行、弘化3年(1846年)4月28日に御小姓組・御郡目付となる(上道郡沖新田や児島郡福田などへ御用で赴いている)。 嘉永6年(1853年)12月、黒船来航のために江戸詰めとなり、上総国・安房国にて様々な御用をこなす。安政2年(1855年)4月28日に御郡奉行となり、その後も各種役目をこなした。 以後は、幕末維新の動乱期にある為なのか、軍務に関係する役目もするようになり、元治元年(1864年)12月8日、長州御追討御出馬御用(長州征伐のため出陣)、慶応元年(1865年)2月2日凱陣。慶応3年(1867年)5月18日には、農兵組立御用などもしている。同年11月21日、加増30石。明治元年(1868年)1月28日、備中松山藩が1月14日に降伏したことによる御用のため2月26日まで備中松山に出張。同年6月23日、30石加増。 明治2年(1869年)9月13日、藩制改革のため知行130石から食禄(給料支給制になる)75石の士族となる。同年10月15日、等平に改名。同年10月21日、藩制改革のため職制6級4大番差配となる。 家族に長男・與一郎、次男・幾三郎(元治元年(1864年)7月18日、新流大砲隊仰付になり、安東四郎大夫(800石・後の大目付)の組下となる。後に、藩命により谷川遊水(150石)の元へ慶応3年(1867年)10月17日、養子に入る。明治2年4月24日、箱館戦争の戦闘で戦死。死後、生前の功績により明治3年2月28日一家相立(食禄80石)となる。)、四男・繁次(元治元年(1864年)7月18日、新流大砲隊仰付になり、安東四郎大夫(800石・後の大目付)の組下となる。元治元年(1864年)11月7日、前髪を落とす(元服)。後に、兄の幾三郎同様、藩命により明治2年(1869年)7月9日、谷川家へ養子に入った。)、娘もいる。三男は不明。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金光等平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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