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金光彬夫 : ミニ英和和英辞書
金光彬夫[かなみつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

金光彬夫 ( リダイレクト:金永祚 ) : ウィキペディア日本語版
金永祚[きむ よんじょ]

金 永祚(キム・ヨンジョ、ハングル:김영조、1923年-1981年3月25日)は韓国出身の野球選手・野球指導者。日本においては戦前の創氏改名政策により「金光 彬夫」(かねみつ あきお)と名乗っていた。娘婿は韓国国会議員の文喜相〔NHK「ハイビジョン特集 『白球~選手たちは海を渡った』」〕。
==来歴・人物==
日本統治時代の朝鮮に生まれた金は内地である東京に移住し、一家は早稲田大学正門近くで朝鮮料理の食堂を営んでいた〔新幹社 韓国野球の源流 〕。この時一家は引越し費用を工面するために実家で栽培していた高麗人参の畑を売却したという。
金は帝京商業(現:帝京大学高等学校)に進み、捕手として1学年後輩の杉下茂とバッテリーを組んだ。金が在学中に帝京商は夏の東京大会で2度優勝するも、戦時下の為に全国大会は開催されることはなかった。
1943年に憧れであった早大野球部に進むが、東京六大学野球は戦況悪化に伴いリーグ戦を中止。「最後の早慶戦」として知られる「出陣学徒壮行早慶戦」にも早大ベンチ入りを果たし、直後休学。朝鮮人である金は学徒出陣の対象ではなかった為に招集されず、翌1944年に「金光彬男」としてプロ野球の朝日軍入り。同年4月22日の対巨人戦に代打として初出場すると藤本英雄からホームランを放った。これが日本プロ野球初の「初打席初本塁打」となった。このシーズンは戦況悪化から開催試合数はわずか35試合に終わり、シーズン2本の本塁打を放った金(金光)は金山次郎産業)の3本に次ぐ「本塁打2位」となった。
日本の敗戦により故郷の朝鮮に戻った金は複数の実業団チームでプレイし、その後韓国農協の前身にあたる「金融組合中央会」に入り、社業の傍ら野球を続けた。1954年アジア野球選手権の為に初めて組まれた韓国代表でも「4番・捕手」として同大会に出場し、以降2度の同大会でも4番打者として起用された。1960年ごろに現役を引退。
現役引退後は所属する農協中央会野球部のコーチ・監督を歴任。韓国代表としても1963年にソウルで開催されたアジア選手権にコーチとして望み、韓国のこの大会の初優勝に貢献。やはり地元開催の1971年アジア選手権では韓国代表監督として指揮を執り、見事優勝を果たした。
1981年、持病であった糖尿病が悪化し死去〔10月の体育の人物 - 韓国スポーツ博物館〕。享年58。生涯、早稲田で野球を学んだことを誇りにしていたといい、早大の校歌「都の西北」を常に口ずさんでいたという〔大島裕史「韓国野球の源流」新幹社〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「金永祚」の詳細全文を読む




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