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東海北部線(トンヘブクプせん、とうかいほくぶせん)は、日本統治時代の朝鮮半島に存在した鉄道路線。 日本統治時代には建設途中のローカル線であったが、日本の統治終了と朝鮮戦争(1950年~1953年)の結果、路線が軍事境界線を跨ぐことになったため、大韓民国(韓国)・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)側いずれにおいても事実上廃線となった。 本稿では、その後1997年にその跡に開業した金剛山青年線(クムガンサンチョンニョンせん)もここで述べる。 == 概要 == 元は、日本海に沿って京元線が通る元山から慶州・釜山までを結ぶ東海線の計画に基づいて、慶州から北進する東海南部線と、元山(厳密には京元線の途中の安辺)から南進する東海北部線の建設が始められ、1929年(昭和4年)より暫定的にその一部が順次営業を開始したものである。1937年(昭和12年)には襄陽までが開業したが、ここから先は建設中のまま終戦を迎え、全通しなかった。 暫定開業であったことから重要性は低い路線で、旅客列車の本数は数往復程度であり、東海北部線の駅は「朝鮮総督府鉄道で最も勤務が楽な駅」とも職員から呼ばれたと言われる〔小牟田哲彦『鉄馬は走りたい 南北朝鮮分断鉄道に乗る』草思社181-182頁〕。しかし、沿線には金剛山観光の入り口である外金剛駅など、幾つか観光地も存在し、観光シーズンの5月から10月にかけての日曜・祝祭日の前日には、京城(現:ソウル)からの夜行列車が外金剛駅まで運行された。 太平洋戦争終結後、日本統治終了により北緯38度線を境に国土が南北に分断された後、東海北部線の運行は北朝鮮側の手によって行われていたが、その後の朝鮮戦争で設備は完全に破壊され、北朝鮮側は事実上の廃線となった。一方、韓国側となった県内~襄陽間は1953年7月31日に再開業したものの、1963年9月30日に県内~杆城間、1965年2月28日に杆城~束草間、1967年1月1日に束草~襄陽間が廃止され、全線廃線となった。終点の襄陽から先の工事も進んでいたが、未成線となった。 1962年に、韓国によって東海線の一部になる予定であった東海~江陵間が嶺東線として開業したが、東海北部線の復旧工事は束草~襄陽間廃止後、南北いずれでもなされずに放置されていた。 北朝鮮側では1970年代初めから再建工事が行われていたとの報告もあるが、結局1997年に金剛山青年線として、安辺からかつて外金剛駅があった場所に建設された金剛山青年駅までの路線が、電化された上で復旧された。しかし北朝鮮の燃料不足とそもそもの不良工事のために列車の運行はなされず、休線のまま放置されていると言われる。 2000年の南北首脳会談により、京義線と共にロシアなどが貨物輸送で注目していることもあって、東海線も復旧工事を行うことが議決された。それに伴い2002年9月に東海北部線の連結工事が着工され、以後韓国と北朝鮮が共同で工事を進めている。韓国側では猪津駅、北朝鮮側では鑑湖駅など駅舎の工事が行われ、鉄道本体の工事も進み、2006年5月25日に南北直通試運転が行われる予定となったが、24日午前に北朝鮮側から突然中止を通告された。 2007年5月17日、ようやく北から南への直通試運転が実施された。猪津駅まで北朝鮮の車両が乗り入れ、その日のうちに北朝鮮へと戻った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東海北部線」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kumgangsan Chongnyon Line 」があります。 スポンサード リンク
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