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金口イオアン(きんこうイオアン、、344年または349年 - 407年9月14日)は4世紀のキリスト教の神学者、説教者、コンスタンディヌーポリ大主教(当時はまだ総主教制は無かった)。「金口」とは、名説教で知られたことから「黄金の口」を意味する「金口(クリュソストモス・)」を付して呼ばれるようになったことによる尊称である。「ヨハネス・クリュソストモス」、「ヨアンネス・クリュソストモス」、「クリソストム」(Chrysostom)などとも表記される。イオアン、イオアンネス、イオアンニス、ヨハネス、ヨハネといった各種表記については#表記・呼称を参照。 正教会、東方諸教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会で、聖人として崇敬される。 正教会において最も頻繁に用いられる聖体礼儀の形式には金口イオアンの名が冠せられ「聖金口イオアン聖体礼儀」と呼ばれる。三成聖者の一人でもある。 カトリック教会においては33人の教会博士の一人でもある。 == 生涯 == 金口イオアンは、ローマ帝国の将軍の子として生まれ、未亡人となった母によってキリスト教徒として育てられる。381年に聖職者となり次第に名声を獲得していった。 398年、修道士として、神品として、アンティオキアで声望の高かった金口イオアン(イオアンネス・クリュソストモス)は、ネクタリオスの後を継いでコンスタンディヌーポリ大主教(当時まだ総主教制は存在していなかった)に推挙されて着座した〔『諸聖略伝 11月』82頁 - 110頁、日本ハリストス正教会、2004年〕。 しかしながらイオアンがその地位に着く事に反対し、着座後もその地位を嫉むアレクサンドリア大主教セオフィロスや、イオアンから職務怠慢によって叱責を受けたり免職された神品達はイオアンを憎んでいた〔。 金持ちの婦人の奢侈を戒めるイオアンの説教について、皇后を指しているのだと讒言した人々があった。このことで怒った東ローマ皇帝アルカディウスの皇后アエリア・エウドクシアは、大主教セオフィロスおよびイオアンに反感を抱く主教達と結託し、皇帝にイオアンを告発した〔。 その後、イオアンを守ろうとする民衆と、皇帝側の役人の間で小競り合いが何度も繰り返され、その度にイオアンに対しては捕縛と釈放が繰り返されたが、結局ニケーアへの流刑となった。ニケーアに到着後、カッパドキアのククスス(:en:Göksun)に流刑先が変更された。流刑先にはイオアンを慕う多くの人々が訪れ、イオアンを物心両面から支援した〔。 最終的に黒海沿岸にイオアンの移送が決まったが、炎天下や雨の日も歩かせ続けるという残酷な処遇がイオアンの体力を奪い、イオアンは道中のコマナ・ポンティキ(Comana Pontica)で永眠した。永眠前には領聖し、「全て光栄は神に帰す」と唱えて永眠したと伝えられる〔。 30年後、イオアンの不朽体はコンスタンティノープルに移された。コンスタンティノープルの海峡は、不朽体を迎えるための民衆の舟で満ち満ちたという〔。 イオアンの説教は、簡潔でありながら自在に『聖書』を引用し、あるいは聖書の挿話や信者の生活を身近なものに喩え、対句や反復などを用いて、わかりやすく信仰の要点を示した。彼の著作としてモーセ五書、聖詠、ヨハネによる福音書、パウロ書簡についての注釈などが残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金口イオアン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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