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金 壁東(きん へきとう)(1896年-1941年)は、中華民国・満州国の政治家・軍人。清朝皇族、粛親王善耆の第七子。母は第一側妃程佳氏。夫人は武毅謀勇公徳壽の娘烏雅氏。〔『愛新覚羅宗譜』甲四冊。〕川島芳子の異母兄。 本名:愛新覚羅憲奎。別名:金壁東〔「金璧東」と誤記されることもあるが、東方の防塁となる意でつけた字であるため壁東が正しい。〕。 == 事績 == 14歳で陸軍貴冑学堂に入学し、19歳で旅順中学に入学した。1915年(民国4年)、父の名代としてモンゴルに入り、翌年の第二次満蒙独立運動に参加している。運動失敗後の1917年(民国6年)に日本へ留学して東京振武学校で学び、川島浪速にも師事した。1921年(民国10年)に帰国している〔岡戸編(1934)、588頁。〕。 1924年(民国13年)の北京政変(首都革命)に際しては、馮玉祥と直談判して清室財産没収を何とか免れたとされ、またこの頃より「金壁東」を称したという。あわせて王公遺産整理弁公処を設立したが、張学良の易幟に伴い解散させられた。その後、北平で満蒙維持会を組織し、その会長を務めている。1930年(民国19年)1月、旅順に移り、翌年には大連で貿易会社の金東公司を設立した〔岡戸編(1934)、588-589頁。〕。 1931年(民国20年)9月の満州事変勃発に際しては、皇族出身の吉林軍閥煕洽と関東軍との連絡役となり、吉長鉄路局長兼吉敦鉄路局長、長春市政籌備処処長を務めた。10月、東北交通委員会副委員長に任命される。1932年(大同元年)3月の満州国建国に際し、執政府内務処内務官・籌備弁事処督弁、吉林鉄道守備隊中将司令官などに任命された。1933年(大同2年)4月、新京特別市公署市長に任ぜられ、1935年(康徳2年)5月、竜江省長に転じた〔徐主編(2007)、885頁。〕。 1937年(康徳4年)7月1日付で退官し〔「満州国退官者」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)7月1日夕刊。〕、以後宮内府顧問官〔、満州映画協会理事長を歴任した。1939年(康徳6年)10月、病気静養中のところ満州映画協会理事長職につき辞表を提出、後任に甘粕正彦が就いた〔「満州映画協会理事長」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)10月24日。〕。1941年(康徳8年)1月31日、仮寓していた北京特別市にて病没。享年46(満44歳)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金壁東」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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