翻訳と辞書
Words near each other
・ 金志川豊見親
・ 金志錫
・ 金応善
・ 金忠善
・ 金思ヨプ
・ 金思寅
・ 金思燁
・ 金性俊
・ 金性洙
・ 金性院
金恩培
・ 金恵京
・ 金恵敏
・ 金悌甲
・ 金惠京
・ 金惠敏
・ 金惠順
・ 金愛爛
・ 金慶喜
・ 金慶弘


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

金恩培 : ミニ英和和英辞書
金恩培[きむ うんべ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
: [おん]
 【名詞】 1. favour 2. favor 3. obligation 4. debt of gratitude 

金恩培 : ウィキペディア日本語版
金恩培[きむ うんべ]

金 恩培キム・ウンベ、きん おんばい、1913年8月21日Onbai Kin - SR/Olympic Sports〕 - 1980年2月15日〔)は、朝鮮半島出身の陸上競技選手。1932年ロサンゼルスオリンピック男子マラソンに出場し、6位に入賞した。早稲田大学卒業。ロサンゼルスオリンピック当時、朝鮮半島は日本に併合されていたため、権泰夏と共に日本代表として出場した。
京城(現:ソウル)の富裕な家に生まれる。1928年に京城の養正高等普通学校(内地の中学校に該当)に入学、陸上部で長距離走の選手として頭角を現す。3年生の頃からは陸上部の主力選手として、朝鮮や内地で開催された競技会や駅伝大会で活躍し、養正高普が陸上の名門と呼ばれる礎を築いた〔養正高普陸上部の躍進には、指導に当たった日本人教員・峰岸昌太郎の尽力も特筆される。峰岸の事績に関しては下記参考文献のほか、西尾達雄『養正高等普通学校体育教師峰岸昌太郎について』(北海道大学大学院教育学研究院紀要104、2008年)を参照。〕。
1931年10月、第7回朝鮮明治神宮大会のマラソンに出場、2時間26分12秒で優勝する。この記録は当時の世界最高記録を大きく上回るものであったが、コースは未公認であったことから正式な記録とはならず、金が初マラソンだったこともあり疑問も寄せられた。しかし11月の明治神宮体育大会(現在の国民体育大会の前身)のマラソン〔当時日本で公認されていたマラソンコースで開催された。〕では、日本最高記録を破る2時間34分58秒で2位となり、マラソンランナーとして注目されることになった。同じ11月、京城と永登浦の間で開催された京永マラソン(短縮コース)で優勝。このとき別の競技会で京城に来ていた孫基禎(後のベルリンオリンピックマラソン金メダリスト)は、この優勝の報を見て初めて「マラソン」という言葉に接したという。孫は翌年、養正高普に入学し、金のチームメイトとなった。
1932年5月のロサンゼルスオリンピックマラソン最終予選会では権泰夏に次ぐ2位となり、オリンピックの代表に選ばれた。権、ボクシングの黄乙秀とともに、朝鮮民族では最初のオリンピック代表選手となった。8月のオリンピック本番では2時間37分28秒の記録で6位入賞を果たした。
養正高普を卒業後、早稲田大学の政治経済学部に進学。在学中は1934年と1935年の箱根駅伝に出場。1934年は7区を走って区間賞を獲得し、総合優勝に貢献した。
戦後は韓国に居住。日本からの解放後に、権泰夏・孫基禎・南昇竜とともに「マラソン普及会」を組織した。その後は韓国陸上競技連盟の理事長やヘルシンキオリンピックの韓国陸上競技監督など、陸上・スポーツ関係の役職を歴任した。
== 参考文献 ==

*鎌田忠良『日章旗とマラソン』(潮出版社、1984年、後に講談社文庫に収録)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「金恩培」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.