|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 金 : [きん] 1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) ・ 龍 : [りゅう] 1. (oK) (n) (1) dragon 2. (2) promoted rook (shogi)
金 昌龍(キム・チャンリョン、)は大韓民国の軍人。アメリカ人からスネーク金()と呼ばれた。 == 人物 == 1920年、咸鏡南道永興郡耀徳面仁上里に生まれる。ここで4年制の普通学校を卒業し、15歳の時に永興農蚕学校に入学した。ここで日本語と中国語を学び、2年の課程を終えた。卒業後は日本人が経営していた永興の片倉製糸工場で働いた。2年間働くと勤務態度が評価され、社長の推薦で新京駅の従業員に転職した。ここで2年間働き、日本人の紹介で北支の日本憲兵部隊の軍属となった。間近で憲兵を見た金昌龍は軍属ではなく本物の憲兵になりたいと願うようになった〔。 1940年4月、新京の憲兵教習所に入り、1941年10月に憲兵補助員となった。満州を中心に謀略・諜報業務に従事し、共産主義運動や反日独立運動などの摘発で頭角を現した。1943年、中国共産党の王近禮を検挙し、この功績で伍長に特進した。 解放後、民族反逆者として指弾され、北朝鮮で2度も死刑宣告を受けたが、そのたびに脱出して越南する。 1946年1月、第5連隊の士兵として入隊。連隊長の推薦によって、警備士官学校第3期に入校した。1947年4月、卒業と同時に第1連隊長李成佳少領の懇望によって連隊の情報係に任じられる。1948年8月、大韓民国樹立後は粛軍などで共産分子の摘発で辣腕を振るう。1949年7月、防諜隊(CIC)隊長(少領)。 1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると朴正熙と共に書類包みを持って漢江を渡り軍に復帰した〔。軍・検・警合同捜査本部長を兼任〔。同年10月、防諜隊が陸軍本部直轄特務部隊(隊長:金炯一大領)に発展して副部隊長となり、翌年4月に部隊長となった〔。1953年、准将。 朝鮮戦争後は軍の保全に名を借りて李承晩の政敵や親野党色の将校の粛清を行った。 李承晩の信任を受け1955年に少将、1956年に陸軍特務部隊長に昇進。権力を振りかざし「造兵敝火災事件」、「東海岸反乱事件」、「ニューデリー密談説」など、軍内外の多くの事件を仕組んだと言われている。 またこれを機に憲兵の職責である軍の警察権まで主張するようになり、果ては人事にまで口出しするようになった。人事が内定すると自分の気に食わない者はあらぬ疑いがあるように具申して中止させたり左遷させる等、軍の秩序を乱すに到ったので全軍的に嫌悪され、1956年1月30日にかつて部下であった許泰英大佐らに暗殺された。李承晩は「有能な人材を私怨で殺すことは、国家に対する反逆と同じである」と激怒したという。死後、中将に昇進した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金昌龍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|