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金春 禅鳳(こんぱる ぜんぽう、享徳3年(1454年) - 天文元年(1532年)?)は、室町時代後期の猿楽師。童名は金春八郎、俗名は竹田元安で法名は桐林禅鳳。当時を代表する猿楽師であったとともに、能作者、能楽論の著者としても知られる。 == 生涯 == 現在の能楽の源流である大和猿楽四座の一つ、秦河勝の子孫を称する金春座(円満井座)の大夫・金春宗筠(七郎元氏)の子として生を受ける。祖父の金春禅竹はやはり謡曲の作者・能楽論の著者として知られた猿楽師で、その妻は猿楽の大成者・世阿弥の娘である。禅竹、宗筠ともに一条兼良などとも交際のある優れた猿楽師であった。 長禄4年(1460年)、7歳の禅鳳は禅竹に付き添われ、大乗院門跡尋尊の元に参上した〔『大乗院寺社雑事記』〕。禅竹は禅鳳15歳の年まで健在であり、禅鳳がこの祖父から有形無形の影響を受けたことは想像に難くない〔『岩波講座 能・狂言 III能の作者と作品』〕。19歳の文明4年(1472年)8月には、奈良古市の祭礼で父の代演を務めるなど、金春座の後継者として順調に成長を遂げる。 文明12年(1480年)11月、父・宗筠が49歳で急逝し、27歳で禅鳳は大夫に就く。 当時猿楽界で隆盛を誇っていたのは、観阿弥・世阿弥・音阿弥と傑才を輩出した観世座であった。音阿弥の死後もその第七子・小次郎信光が座を支えており、その地位は磐石であった。加えて時の将軍・足利義政は音阿弥以来観世贔屓であり、金春座は遅れを取っていた。 文明15年(1483年)、義政の意向で、従兄弟で大夫を支える有能な脇師の日吉源四郎を、観世座に奪われてしまう。それ以前にもやはりワキ方の守菊(弥)七郎を引き抜かれており、大夫を継いだばかりの禅鳳と金春座は大きな打撃を受ける。 しかし禅鳳は興福寺衆徒の古市澄胤、河内の畠山氏などの後援を受けて何とかこの危機を乗り越える。明応2年(1493年)6月、40歳で禅鳳は初となる室町御所での演能を果たし、以後中央でもその実力を認められることとなった。 結果、当時の有力者であった細川政元、大内義興を彼の後援者として、根拠地であった奈良、さらに京でもしばしば勧進猿楽を催すようになる。主なものに文亀元年(1501年)京今熊野、永正2年(1505年)粟田口での勧進猿楽がある。文亀元年の際には公卿・女官がこぞって見物に訪れ〔『実隆公記』〕、また永正2年の勧進猿楽は当時52歳の禅鳳の活動の頂点を示すものとして、よく知られている〔。 大永8年(1528年)3月までに出家して禅鳳を名乗り、この頃嫡男の七郎氏昭に大夫職を譲ったらしい。隠居後は豊後などに下ったというが〔『能口伝之聞書』〕、その没年についてははっきりとは分からない。京の戦乱を避けて、後援者でもあった大内氏を頼り西国で晩年を過ごしたとも考えられている〔表章・伊藤正義『金春古伝書集成』(わんや書店、1969年)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金春禅鳳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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