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金 杞泰(キム・キテ、ハングル:、1969年5月23日 - )は、韓国・光州広域市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。 == 来歴・人物 == === 現役時代 === 大学時代から野球韓国代表の中心打者として活躍。大学4年生時の、サンバンウル・レイダースへ入団。新規参入球団である同球団の措置として新人ドラフトで1次指名と2次指名の間で行われた特別指名を受けてのものだった。 新人でありながら、当時、選手層の薄さで苦戦したチームの4番打者として早くも定着。27本塁打で当時までの新人最多本塁打および左打者シーズン最多本塁打の新記録を達成、打点2位などの活躍で新人王候補にもなった。しかし、記者投票では最優秀救援のタイトルを取ったチームメイトの曺圭帝(チョ・ギュジェ)に敗れ、2位で終わった。 それ以降、サンバンウルの中心打者として、また韓国プロ野球を代表する左の大砲としての地位を固める。は最多本塁打のタイトルを、には首位打者のタイトルを獲得。特に1994年の最多本塁打のタイトルで韓国プロ野球史上初めての左打者本塁打王となり、それまで「左打者は巧打者」という韓国プロ野球の常識を破った。チームの歴史を通じて、いつも貧弱だったサンバンウルの打線でより一層の存在感を持ち、相手からは「サンバンウルの打線は金杞泰さえ避ければ大丈夫」と徹底的に敬遠されて、何かあれば勝負を避けられた。そのお陰でシーズン3ケタ四球を2度も記録するなど、通算975四球を記録。また敬遠の数も歴代2位の129にあがり、サンバンウルに在籍した8年間で6度も二ケタ敬遠を記録した。それでも自分のリズムを崩さず、猛打を振るってきた。、1997年は金星根(キム・ソングン)監督の下でポストシーズンも経験。 にアジア経済危機で親会社が経営難に陥り、球団の運営にも陰りが見られた。それで、サンバンウルは主力選手を資金力が豊富だった現代ユニコーンズや三星ライオンズなどにトレードで出して、その代償でもらった資金で運営費に充てる羽目になった。これは、打線の中心だった彼にも例外ではなく、中継ぎの要で1996年はリリーフだけで20勝を挙げ、最多勝のタイトルを取ったこともあったチームメイトの金玄旭(キム・ヒョヌク)とともに金銭トレードで1998年シーズン終了後に三星ライオンズに移籍した。 三星では左の長距離砲として林昌勇(イム・チャンヨン)獲得のためヘテにトレードされた梁埈赫(ヤン・ジュンヒョク)の穴を埋める役割を果たした。また、2000年シドニーオリンピックの韓国代表に選ばれ、銅メダルを獲得した。 しかし、優勝請負人として三星に赴任した金応龍(キム・ウンヨン)監督との確執で出場機会が減り、にSKワイバーンズにトレードされた。SK移籍後は、年齢からくる衰えを克服できず成績が落ち、は一度調子を取り戻すも、は54試合出場で打率.205と不本意な成績に終わったのを最後に現役引退。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金杞泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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