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金森 頼錦(かなもり よりかね)は、江戸時代の美濃八幡藩の第2代藩主。金森可寛の長男。 == 生涯 == 父の可寛は初代美濃八幡藩主・金森頼時の嫡子であったが、37歳の若さで早世したため、享保21年(1736年)の祖父の死去により家督を継いだ。延享4年(1747年)奏者番に任じられ、藩政では目安箱を設置したり、天守に天文台を建設するなどの施策を行った。また、先人の事跡をまとめた『白雲集』を編纂するなど、文化人としても優れていた。 頼錦の任じられた奏者番は、幕閣の出世コースの始まりであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要であった。頼錦は藩の収入増加を図るため、宝暦4年(1754年)、年貢の税法を検見法に改めようとした。結果、これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発した。さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動まで起こって藩内は大混乱し、この騒動は宝暦8年(1758年)12月25日、頼錦が幕命によって改易され、陸奥盛岡藩の南部利雄に預けられるまで続いた。宝暦13年(1763年)6月6日死去、享年51。 嫡男出雲守頼元をはじめ男子5人は士籍を剥奪され、頼元、三男伊織頼方は改易、五男熊蔵(錦豊)、六男武九郎(頼興)、七男満吉は15歳まで縁者に預けられた。また、次男正辰は宝暦3年(1753年)に常陸下妻藩井上家に養子に入っておりお咎めなしだった。六男の頼興は、明和3年(1766年)に赦免され、天明8年(1788年)に1,500俵で名跡を継ぎ子孫は旗本として存続した。頼錦が没すると盛岡の法泉寺に葬られたが、金森家再興の翌寛政元年(1789年)に頼興は遺骨を引き取り火葬の上、京の大徳寺の金森家墓所に改葬した。 なお、金森可重の五男・重勝を祖とする分家の金森左京家は3,000石の石高のまま、宗家改易後は越前国南条郡白崎に領地を移され交代寄合の旗本として存続している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金森頼錦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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