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金沢顕時 : ミニ英和和英辞書
金沢顕時[きん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
: [さわ]
 【名詞】 1. (1) swamp 2. marsh 3. (2) mountain stream 4. valley 5. dale 
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 

金沢顕時 ( リダイレクト:北条顕時 ) : ウィキペディア日本語版
北条顕時[ほうじょう あきとき]

北条 顕時(ほうじょう あきとき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将北条氏一門金沢流北条氏の第3代当主。金沢顕時とも称される。父は第2代(実質的には初代)当主で鎌倉幕府の重職を歴任した北条実時。正室は安達泰盛の娘・千代野
安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより逼塞を余儀なくされたが、その後に第9代執権・北条貞時の信頼を回復して復権。顕時の代に、金沢流北条氏は全盛期を迎えた〔『北条高時と金沢貞顕』19頁〕。
== 生涯 ==

北条実時の子として生まれる。父について、『尊卑分脈』や諸本の「北条系図」では北条実村〔実時を父とする説では舎兄にあたる。〕の子としている(『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』では同様の記述において実村を北条時村としている〔が恐らくは誤植である)が、関靖の著書〔によって誤りであることが考証されている〔(弟の実政時直についても同様である〔永井、2006年、P.27-28。〕)。
正嘉元年(1257年11月23日、10歳で、得宗家当主・北条時頼の邸宅において元服し、越後四郎時方と名乗る〔〔『吾妻鏡』正嘉元年十一月二十三日条
正嘉元年十一月小廿三日甲戌。晴。酉剋越後守實時朝臣息男十歳相州禪室御亭元服。号越後四郎時方。理髪丹後守頼景加冠相摸太郎七歳
この記載から、理髪役は丹後守頼景(安達頼景)が、加冠役(烏帽子親)は時頼の嫡子・北条時宗が、それぞれ務めたことが確認できる。金沢流北条氏は、北条氏一門の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられていた得宗家と赤橋流北条氏に対し、大仏流北条氏の当主とともに、得宗家当主を烏帽子親とする、それよりも一ランク低い家と位置づけられていたことが指摘されており(山野龍太郎論文 脚注(27)(山本、2012年、p.182))、この方針に沿って烏帽子親の時宗から「時」の字を賜って時方と名乗ったとされている(角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.19))。しかし、時宗は(西暦では)同年の2月に元服したばかりの(付記のある通り)7歳の少年であり、実際はこの当時まだ得宗家の当主にはなっていなかった。年齢的にもこの元服の儀式を主導する立場にあったとは考えにくく、これはその父で邸宅の持ち主であった時頼の指名を受けたものと考えられている(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.167~168))。このように得宗家の嫡子が当主になる前の段階で烏帽子親を務めるケースがあり、時宗の場合で言えば、当主となる前に「宗」の字を受けたとみられる二階堂行宗佐々木宗綱も同様の可能性がある(現段階の研究では時宗と同じく将軍・宗尊親王を烏帽子親としたと考えられている(角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.20)))。〕。文応元年(1260年)に将軍家庇番衆となって宗尊親王に仕え、歌学などの学問を学ぶ〔『金沢貞顕』25頁・26頁。〕。この時までに顕時に改名したようである〔。文永2年(1265年)以前に左近将監で伊勢守護に任命されている〔。
文永6年(1269年)4月27日に引付衆となった後〔〔、弘安元年(1278年)2月には評定衆に加えられ〔、弘安3年(1280年)には越後守に任官〔。弘安4年(1281年)には引付四番頭人へと昇進〔。その間、左近将監、越後守に任じられている。弘安6年(1283年)には従五位上に叙任。
弘安8年(1285年)11月17日、幕政を主導していた安達泰盛らが内管領平頼綱に滅ぼされた霜月騒動では〔『金沢貞顕』9頁。〕、泰盛の娘婿にあたる顕時は騒動には関与しなかったが、縁戚として連座し金沢家の領地であった下総埴生庄に隠棲し〔、出家して「恵日」(えにち)と名乗ったが、実際は謹慎処分であり出家したために助命されている〔『金沢貞顕』9頁・10頁。〕〔。
永仁元年(1293年)4月22日に執権・北条貞時が平禅門の乱で頼綱を滅ぼした。その5日後の4月27日に顕時は鎌倉に戻って幕政に復帰し(『武家年代記』)〔『金沢貞顕』12頁。〕〔、10月には貞時が引付を廃止して執奏を新設し、顕時は北条宗宣らと共に任命された〔『金沢貞顕』12頁。〕。永仁2年(1294年)には引付四番頭人に〔『金沢貞顕』13頁。〕、永仁4年(1295年)には三番頭人に加わり、赤橋館を与えられる。
晩年は長年の激務から胃病を患って政務を退くが、貞時の信頼は厚く度々諮問を受けたという〔「胃を病呵せられて、休退を許すといえども、裁あるごとに諮問せらる、然る間、正安の暦清明に夭し」とある(『北条顕時十三廻忌諷桶文案』)『金沢貞顕』16頁。〕。
正安3年(1301年)3月28日に死去〔『金沢貞顕』16頁。〕〔。享年54〔『金沢貞顕』16頁。〕。跡を子の貞顕が継ぎ、金沢北条家は引き続いて得宗家の厚い信任と抜擢を受け続けることになる〔『金沢貞顕』17頁。〕。
顕時は父に似て好学であり〔、金沢文庫の成立に寄与したという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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