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鈴木 さえ子 (すずき さえこ、1957年3月14日 - )は、日本の作曲家、ドラマー。 1980年にシネマのドラマーとしてデビュー。印象派に強い影響を受けたソングライティングが特徴で、ソロ3作目のアルバム『緑の法則』(1985年)以降、ロック印象派を、近年はテクノ印象派と自称する。元夫はミュージシャンの鈴木慶一。 == 来歴 == === 〜1982 === 東京・国立市生。子供の頃からクラシックピアノを弾いていた彼女のドラムとの出会いは比較的遅く、高校2年の時。桐朋学園大学短期大学部芸術科ピアノ専攻(現桐朋学園芸術短期大学)に進むが、在学中から青山学院大学の軽音楽部に顔を出すようになる。 大学卒業と前後して青学のガールズバンド"メデューサ"に加入、プロとしてのキャリアをスタートさせる。しかし、「女性だけのバンド」への偏見が残っていた時代、雑誌の取材でも「メス猫ロック」と形容されるなど、メデューサは不遇なままデビューすることなく解散。その後、やはり女性だけのフュージョンバンド"ベアトリーチェ"でYamaha EAST WESTレディース部門初代グランプリを獲得するが、これもデビューすることなく解散することとなった。この時期、スタジオミュージシャンとしてのキャリアもスタート、松任谷正隆がプロデュースしていた歌手堀川まゆみのサポートなどを務めている。 1980年、松尾清憲を中心に結成されたバンド"CINEMA"のドラマーに誘われ加入する。なお、この直前、CINEMAのプロデューサー鈴木慶一が関わっていた佐藤奈々子のバックバンドにも誘いを受けたそうだ。CINEMAはシングル3枚とアルバム1枚を発表し、ハイセンスなポップサウンドでメディアにも採り上げられるも、セールスには恵まれず1981年に解散。25年間の眠りにつくことになった。 CINEMA解散後、スタジオミュージシャンの仕事を本格化した彼女は、並行して"FILMS"、立花ハジメのバンド"H"、坂本龍一の"B2-UNITS"などに参加。忌野清志郎+坂本龍一のヒット作『い・け・な・いルージュマジック』でクールにドラムを叩く彼女の姿を数多くのTV音楽番組が取り上げた事もあり、一躍脚光を浴びるようになる。この時期、ビートたけしのバックでドラムを叩く「美少年」(=鈴木さえ子)をテレビで観た泉谷しげるが、「自分のバンドに入れて女の子のファンを増やそう」とオファーを出したという逸話もあった。結局、その後約3年に渡り、泉谷しげるのサポートを行うことになる。また、当時サブカルチャーの教科書的雑誌だった「ビックリハウス」が主催した1982年5月5日のイベント「ヘンタイよいこ白昼堂々秘密の大集会」では、"ヘンタイよいこバンド(別名いけないバンド)"の一員としてライブを行い注目された。メンバーは、忌野清志郎、坂本龍一、仲井戸麗市、矢野顕子、鈴木さえ子、どんべ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木さえ子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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