|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 鈴 : [すず] 【名詞】 1. bell ・ 木 : [き] 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber ・ 子 : [こ, ね] (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)
鈴木 澄子(すずき すみこ、1904年10月26日 - 1985年1月18日〔鈴木澄子 、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2010年2月8日閲覧。〕)は、日本の女優である。「化け猫女優」として知られる〔。初期芸名は鈴木 すみ子(読み同)。 == 人物・来歴 == 1904年(明治37年)10月26日、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)に生まれる〔鈴木澄子、キネマ旬報映画データベース、2010年2月8日閲覧。〕。 1921年(大正10年)、満15歳のとき、トーマス・栗原(栗原喜三郎)に見出され〔、前年に設立された大正活映に入社、同年5月11日公開の栗原の監督した短篇映画『喜撰法師』に出演してデビューする〔〔鈴木澄子、日本映画データベース、2010年2月8日閲覧。〕。同社には俳優として、岡田時彦(当時は野羅久良夫)、井上金太郎(当時は栗井饒太郎)、内田吐夢(当時は閉田富)、二川文太郎らが在籍した。 1922年(大正11年)、同社が製作を停止すると、京都に新設された小笠原映画研究所(小笠原プロダクション)に移籍、同所を主宰する小笠原明峯が監督した現代劇『三色すみれ ''Love in Idleness''』に出演した〔。翌1924年(大正13年)には東亜キネマに移籍した〔。 帝国キネマ演芸を経て、1925年(大正14年)、マキノ・プロダクションに移籍する〔。二川文太郎らの監督作に主演し、多くの映画に出演した後、1928年(昭和3年)、牧野省三の監督作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』に出演したのを最後に、京都を離れ、東京・巣鴨の河合プロダクション(のちの大都映画)に移籍した〔。翌1929年(昭和4年)には市川右太衛門プロダクションに移籍、1930年(昭和5年)には再び帝国キネマに入社した〔。 1931年(昭和6年)、帝国キネマの新興キネマへの改組にあたり、継続入社し、1937年(昭和12年)、木藤茂が監督した『佐賀怪猫伝』に大友柳太郎とともに出演、同作のヒット以来、多くの怪談映画に主演した〔。そのため「化け猫女優」として知られる〔。 1941年(昭和16年)、吉田信三監督の『羅生門』に茨木の童子役で主演したのち、翌1942年(昭和17年)の戦時統制による同社の大日本映画製作(のちの大映、現在の角川映画)への統合にあたり退社、「鈴木澄子一座」を結成して実演の巡業を開始した〔。 1985年(昭和60年)1月18日、脳出血が原因で死去した〔。満80歳没。生涯で200作を超える映画に出演した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木澄子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|