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鈴木三重吉 : ミニ英和和英辞書
鈴木三重吉[すずき みえきち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すず]
 【名詞】 1. bell 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [み]
  1. (num) three 
三重 : [みえ, さんじゅう]
 【名詞】 1. triple 2. treble 3. threefold 4. three-ply 5. triplicate 
: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important

鈴木三重吉 : ウィキペディア日本語版
鈴木三重吉[すずき みえきち]

鈴木 三重吉すずき みえきち1882年明治15年)9月29日 - 1936年昭和11年)6月27日)は、広島県広島市出身の小説家児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。
== 人物 ==


1882年(明治15年)9月29日広島県広島市猿楽町(現、中区紙屋町、現在エディオン広島本店 本館がある地)に、父悦二、母ふさの三男として生まれる。
1889年(明治22年)本川小学校に入学。1891年(明治24年)三重吉が9歳の時に、母ふさが亡くなる。1893年(明治26年)11歳の時に、第一高等小学校に入学。1896年(明治29年)広島県広島尋常中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)に入学。1897年(明治30年)、三重吉が15歳の時に書いた『亡母を慕ふ』が、「少年倶楽部」4月号に、『天長節の記』が「小国民」9年2号に掲載される。この頃、映山という筆名で、「新声」等へも投稿していた。中学2年の時には、童話『あほう鳩』などが、「少年倶楽部」に入選している。
1901年(明治34年)、第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。夏目漱石の講義を受ける。1905年(明治38年)23歳の時、神経衰弱を煩い、静養のため大学を休学し、広島県佐伯郡能美島(現・広島県江田島市)で過ごす。この間に『千鳥』の題材を得る。1906年(明治39年)3月に『千鳥』を完成させ、夏目漱石に原稿を送ったところ、推薦を得て高浜虚子に原稿が送られ、雑誌「ホトトギス」5月号に掲載された。以降、漱石門下の一員として中心的な活動をおこなう。
1906年(明治39年)4月から7月頃まで、広島市内の私立中学の講師となる。同年、親友の加計正文を訪ねて加計町吉水園(現・広島県安芸太田町)で夏を過ごし、この間に『山彦』の題材を得る。同年9月、上京して大学に復学し、漱石門下となり、漱石宅での「木曜会」に参加する。これを機に、高浜虚子・森田草平寺田寅彦小宮豊隆らと親しくなる。1907年(明治40年)1月に、『山彦』が「ホトトギス」1月号に掲載される。同年4月には、『千代紙』を俳書堂より出版。
1908年(明治41年)東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。この年の7月に、父悦二が亡くなる。同年10月、成田中学校の教頭として赴任、英語を担当する。1910年(明治43年)3月より、「国民新聞」にて、長編小説『小鳥の巣』を連載した。
1911年(明治44年)三重吉29歳の時、成田中学校を退職し上京、海城中学校の講師となる。同年5月、ふぢと結婚。1912年(明治45年)活発な創作活動により、雑誌への作品掲載や、『返らぬ日』『お三津さん』などを出版。1913年(大正2年)4月、中央大学の講師となる。同年7月より、「国民新聞」に『桑の実』を連載〔長編小説。1913年7月25日から11月15日に「国民新聞」に発表。翌年1月、春陽堂刊。〕。1915年(大正4年)3月より、『三重吉全作集』の刊行を始める(全13巻まで刊行)。同年4月、「中央公論」へ『八の馬鹿』を発表。これまで、数々の作品を執筆して小説家としての評価を上げたが、自身の小説家としての行き詰まりを自覚し、これ以降、小説の筆を折る。
1916年(大正5年)、三重吉34歳の時、河上らくとの間に、長女すずが生まれる。娘のために童話集『湖水の女』を創作したことをきっかけに、児童文学作品を手掛けるようになった。同年7月、妻ふぢが亡くなる。
1917年(大正6年)4月より、『世界童話集』の刊行を開始。清水良雄が装丁・挿絵を担当し、児童文芸誌『赤い鳥』へ続く親交が始まる。 1918年(大正7年)1月、長男珊吉が生まれる。同年6月、『赤い鳥』(7月号)を創刊。同年9月、海城中学を辞職、中央大学を休職し、本格的に児童文学誌『赤い鳥』に力を入れ始める。
『赤い鳥』では、文壇の著名作家 〔運動の当初の賛同者には泉鏡花小山内薫徳田秋声高浜虚子野上豊一郎野上弥生子小宮豊隆有島生馬、芥川龍之介、北原白秋島崎藤村森鴎外森田草平の他数十名、1年後には小川未明谷崎潤一郎久米正雄久保田万太郎有島武郎秋田雨雀西條八十佐藤春夫菊池寛三木露風山田耕筰成田為三近衛秀麿らも加わっている。しかし代作が多く、実際に執筆した作家として井伏鱒二、、宇野浩二宇野千代上司小剣小島政二郎豊島与志雄中村星湖林芙美子広津和郎室生犀星らがいた。特に小島の代作が多い。〕に執筆を依頼。芥川龍之介蜘蛛の糸」や有島武郎「一房の葡萄」などの童話、北原白秋らの童謡、小山内薫久保田万太郎らの児童劇など、大正期児童文学関係の名作が本誌から誕生し、教訓色に塗り潰されていた従来の児童読み物が、芸術的にも高められていく気運を作り出した。
1921年(大正10年)10月、三重吉39歳の時に、小泉はま(濱)と再婚する。1928年(昭和3年)、三重吉46歳の時、乗馬による少年の精神教育を主旨とした騎道少年団を設立する。1929年(昭和4年)3月、『赤い鳥』は休刊したが、翌年より復刊準備にかかり、1931年(昭和6年)1月に、『赤い鳥』は復刊した。
1935年(昭和10年)、三重吉53歳の時、山梨県小淵沢にて『綴方読本』の執筆にとりかかる。同年10月頃から、喘息のため病床に臥す。同年12月、『綴方読本』を刊行。
1936年(昭和11年)6月24日、病状が悪化し、東大真鍋病院へ入院。同年6月27日・午前6時30分、肺がんのため死去。。同年6月29日、西大久保の自宅で告別式が営まれる。三重吉の死去と共に、『赤い鳥』は同年8月号で終刊した。同年10月、『赤い鳥 鈴木三重吉追悼号』が刊行される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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