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鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年(明治15年)9月29日 - 1936年(昭和11年)6月27日)は、広島県広島市出身の小説家・児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。 == 人物 == 1882年(明治15年)9月29日、広島県広島市猿楽町(現、中区紙屋町、現在エディオン広島本店 本館がある地)に、父悦二、母ふさの三男として生まれる。 1889年(明治22年)本川小学校に入学。1891年(明治24年)三重吉が9歳の時に、母ふさが亡くなる。1893年(明治26年)11歳の時に、第一高等小学校に入学。1896年(明治29年)広島県広島尋常中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)に入学。1897年(明治30年)、三重吉が15歳の時に書いた『亡母を慕ふ』が、「少年倶楽部」4月号に、『天長節の記』が「小国民」9年2号に掲載される。この頃、映山という筆名で、「新声」等へも投稿していた。中学2年の時には、童話『あほう鳩』などが、「少年倶楽部」に入選している。 1901年(明治34年)、第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。夏目漱石の講義を受ける。1905年(明治38年)23歳の時、神経衰弱を煩い、静養のため大学を休学し、広島県佐伯郡能美島(現・広島県江田島市)で過ごす。この間に『千鳥』の題材を得る。1906年(明治39年)3月に『千鳥』を完成させ、夏目漱石に原稿を送ったところ、推薦を得て高浜虚子に原稿が送られ、雑誌「ホトトギス」5月号に掲載された。以降、漱石門下の一員として中心的な活動をおこなう。 1906年(明治39年)4月から7月頃まで、広島市内の私立中学の講師となる。同年、親友の加計正文を訪ねて加計町吉水園(現・広島県安芸太田町)で夏を過ごし、この間に『山彦』の題材を得る。同年9月、上京して大学に復学し、漱石門下となり、漱石宅での「木曜会」に参加する。これを機に、高浜虚子・森田草平・寺田寅彦・小宮豊隆らと親しくなる。1907年(明治40年)1月に、『山彦』が「ホトトギス」1月号に掲載される。同年4月には、『千代紙』を俳書堂より出版。 1908年(明治41年)東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。この年の7月に、父悦二が亡くなる。同年10月、成田中学校の教頭として赴任、英語を担当する。1910年(明治43年)3月より、「国民新聞」にて、長編小説『小鳥の巣』を連載した。 1911年(明治44年)三重吉29歳の時、成田中学校を退職し上京、海城中学校の講師となる。同年5月、ふぢと結婚。1912年(明治45年)活発な創作活動により、雑誌への作品掲載や、『返らぬ日』『お三津さん』などを出版。1913年(大正2年)4月、中央大学の講師となる。同年7月より、「国民新聞」に『桑の実』を連載〔長編小説。1913年7月25日から11月15日に「国民新聞」に発表。翌年1月、春陽堂刊。〕。1915年(大正4年)3月より、『三重吉全作集』の刊行を始める(全13巻まで刊行)。同年4月、「中央公論」へ『八の馬鹿』を発表。これまで、数々の作品を執筆して小説家としての評価を上げたが、自身の小説家としての行き詰まりを自覚し、これ以降、小説の筆を折る。 1916年(大正5年)、三重吉34歳の時、河上らくとの間に、長女すずが生まれる。娘のために童話集『湖水の女』を創作したことをきっかけに、児童文学作品を手掛けるようになった。同年7月、妻ふぢが亡くなる。 1917年(大正6年)4月より、『世界童話集』の刊行を開始。清水良雄が装丁・挿絵を担当し、児童文芸誌『赤い鳥』へ続く親交が始まる。 1918年(大正7年)1月、長男珊吉が生まれる。同年6月、『赤い鳥』(7月号)を創刊。同年9月、海城中学を辞職、中央大学を休職し、本格的に児童文学誌『赤い鳥』に力を入れ始める。 『赤い鳥』では、文壇の著名作家 〔運動の当初の賛同者には泉鏡花、小山内薫、徳田秋声、高浜虚子、野上豊一郎、野上弥生子、小宮豊隆、有島生馬、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村、森鴎外、森田草平の他数十名、1年後には小川未明、谷崎潤一郎、久米正雄、久保田万太郎、有島武郎、秋田雨雀、西條八十、佐藤春夫、菊池寛、三木露風、山田耕筰、成田為三、近衛秀麿らも加わっている。しかし代作が多く、実際に執筆した作家として井伏鱒二、、宇野浩二、宇野千代、上司小剣、小島政二郎、豊島与志雄、中村星湖、林芙美子、広津和郎、室生犀星らがいた。特に小島の代作が多い。〕に執筆を依頼。芥川龍之介「蜘蛛の糸」や有島武郎「一房の葡萄」などの童話、北原白秋らの童謡、小山内薫、久保田万太郎らの児童劇など、大正期児童文学関係の名作が本誌から誕生し、教訓色に塗り潰されていた従来の児童読み物が、芸術的にも高められていく気運を作り出した。 1921年(大正10年)10月、三重吉39歳の時に、小泉はま(濱)と再婚する。1928年(昭和3年)、三重吉46歳の時、乗馬による少年の精神教育を主旨とした騎道少年団を設立する。1929年(昭和4年)3月、『赤い鳥』は休刊したが、翌年より復刊準備にかかり、1931年(昭和6年)1月に、『赤い鳥』は復刊した。 1935年(昭和10年)、三重吉53歳の時、山梨県小淵沢にて『綴方読本』の執筆にとりかかる。同年10月頃から、喘息のため病床に臥す。同年12月、『綴方読本』を刊行。 1936年(昭和11年)6月24日、病状が悪化し、東大真鍋病院へ入院。同年6月27日・午前6時30分、肺がんのため死去。。同年6月29日、西大久保の自宅で告別式が営まれる。三重吉の死去と共に、『赤い鳥』は同年8月号で終刊した。同年10月、『赤い鳥 鈴木三重吉追悼号』が刊行される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木三重吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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