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鈴木 史朗(すずき しろう、1938年2月10日 - )は、日本のアナウンサー、タレントである。京都府京都市北区、上賀茂神社の社家、神社を守護する武士家系出身である〔。血液型はAB型。TBS在職ののち、フリーアナウンサーとなる。 本名は同じ〔参考:『1999年版 日本タレント名鑑』(1999年4月21日、VIPタイムズ社発行)ISSN 1343-8263〕〔2005年当時、スポニチアネックス内芸能タレント名鑑に掲載されたプロフィール - インターネットアーカイブ2005年4月5日付保存キャッシュ〕だが、TBS在職当時より冒頭表記〔『週刊読売』1985年10月13日P139に掲載の、キャスター・アナウンサー名鑑。〕〔『TVスター名鑑』(『TVガイド』臨時増刊1992年10月15日号)P149〕と「鈴木 史郎」表記〔TBSラジオ番組表(昭和41年=1966年4月21日現在)…PDFファイル (TBSラジオ開局60周年記念特設サイト『ラジオ東京スピリッツ』 より)。日曜12:10 - 13:00の『今週のベストテン』を参照。「湯川れい子」「鈴木史郎アナウンサー」の記述あり。〕〔TBSラジオ番組表(昭和43年=1968年4月現在)…PDFファイル (TBSラジオ開局60周年記念特設サイト『ラジオ東京スピリッツ』 より)。月 - 土曜15:20 - 15:50の『マツダ・ミュージック・ラリー』(「八代英太」「鈴木史郎アナウンサー」の記述あり)および日曜15:00 - 15:30の『マツダミュージック・ラリー』(「鈴木史郎」の記述あり)をそれぞれ参照。〕〔『TBS50年史』各種資料(資料編内掲載アナウンサーの活動記録・付録DVD「ハイブリッド検索編」に収録のPDF文書『TBSアナウンサーの動き』、同DVDに収録のラジオ番組・テレビ番組出演者別リスト)より参照。なお、先述DVDにPDFファイルとして再録された、1976年12月14日(報道局ニュース部社会班在職当時)発行の社内報『TBS社報』NO.437掲載記事『TBS紳士録』最終回(6回目)11ページ、1991年6月(アナウンスセンター兼報道総局在職当時)発行の社内報掲載記事『all TBS紳士・淑女録』第10回33ページ(アナウンスセンターの巻)でもそれぞれこの表記で紹介された。〕〔TBS在籍当時のホームページ内プロフィール(外部リンク参照)〕〔『バイオ』15周年に、紗綾さん&鈴木史郎さん登場【TGS 2011】 - デジタル - 日経トレンディネット(2011年9月18日)〕〔外部リンク(タブ・ハウスのホームページ内インタビューのプロフィール)。〕〔日本民間放送連盟編『民間放送全職員人名簿 各年度版』(岩崎放送出版社)〕の両方が見られる。愛称は「史朗さん」。 == 来歴・人物 == 父親が日中貿易会社を設立し、幼少期は仕事関係から中国大陸で暮らす〔週刊ポスト2013年11月8・15日号「鈴木史朗氏『国のためにとサムライ母に厳しく育てられた(2013年11月07日)』 NEWSポストセブン 小学館 2015年08月17日閲覧〕。第二次世界大戦の終戦後は、父親が無実のスパイ容疑をかけられ中国政府に拘束、強権的に財産没収を受ける〔。そのため母親と妹2人の4人で日本へ引き揚げることとなり、北京から天津の港まで約120kmを徒歩で移動したという〔。佐世保に着いた時、黄砂で空も空気も黄色く濁っていた中国に比べて、日本は「こんなにもきれいな国があるのか。天国みたいだ」と思ったと回想している〔鈴木史朗「こんなにもきれいな国、天国みたいだ」、WiLL (雑誌) 2015年7月号〕。 京都市立紫野高等学校在学時は陸上競技部に所属し、三段跳で活躍。早稲田大学法学部〔外部リンク(タブハウス)を参照。〕へ進学し、放送研究会に所属。会友には露木茂や大沢悠里らがいた。卒業後の1962年4月にTBSへ入社し、アナウンス室に配属される(アナウンサー第8期生〔『TBS50年史』資料編P237を参照。〕〔『TBSアナウンサーの動き』P15〕)。1963年に初の衛星中継を担当したが、それが日本時間11月23日のジョン・F・ケネディ暗殺(ケネディ大統領暗殺事件)の一報であった。 1966年1月よりラジオ局放送部兼テレビ編成局アナウンス部〔、1967年11月よりラジオ局第一制作部兼アナウンサー研修室付〔、1969年3月よりラジオ局放送部兼第一制作部兼第二制作部兼アナウンサー研修室付〔にそれぞれ配属された。 1970年7月よりテレビ本部制作局制作部〔に配属され、アナウンス職から離れる〔1976年12月14日発行の社内報『TBS社報』NO.437掲載記事『TBS紳士録』最終回(6回目)11ページに掲載された鈴木の紹介文(報道局ニュース部の一員として掲載)より、「鈴木史郎。アナウンサー生活八年。テレビ制作から契約部を経て社会班に。」との記述あり。〕。同制作部時代には。番組制作ディレクターを務めた〔。以後、1974年2月より編成局契約部〔〔、1975年8月より報道局ニュース部〔〔、1977年11月ラジオ本部ラジオ局ラジオニュース部〔、1980年4月テレビ本部報道局編集部兼ラジオニュース部〔、1989年1月より報道総局アナウンス部兼報道局編集部兼ラジオ総局情報制作局ニュース・情報センター部〔、1991年5月よりアナウンスセンター兼報道局にそれぞれ配属された〔。 その間、報道局時代には社会部記者〔〔『元気の源泉』NO.37 (外部リンク。TBSホームページ内同名番組公式サイト)より、社会部記者を務めたことが記されている。〕〔を務めた。報道局時代の1983年には、アナウンス活動へ復帰している〔『テレビ・タレント人名事典』より、「鈴木史朗」の項目を参照。〕(同年にアナウンス部へ復帰したとする文献〔もあるが、誤り〔)。のちにアナウンス副部長も務めた〔。アナウンサーとしては、報道番組の他にバラエティにも出演〔。『さんまのからくりTV』内コーナー『ご長寿早押しクイズ』の司会者として人気を得た〔。 1998年2月に60歳で、TBSを定年退職〔〔後、翌月よりフリーアナウンサーとなる。その一方、歌手・俳優・モデル、テレビゲームとあらゆる分野に挑戦、講演活動を中心に活躍している。1999年には『想春譜』で歌手デビューを果たし〔、同曲は約6万枚の売上を記録した〔あの人は今こうしている 元TBSアナ鈴木史朗さんは今…ゲームの腕が「神の領域」に 、日刊ゲンダイ、2014年7月28日。〕。2002年には舞台俳優として『新演歌の花道』へ初出演した〔。 2000年、主にTBSアナウンサーOBのマネジメントを行う事務所であるクリエイティブ・メディア・エージェンシー(CMA。2010年7月より、キャスト・プラス)と契約〔『2013年度版芸能界ベストセレクション』P92掲載「(株)キャスト・プラス」の情報。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木史朗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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