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鈴木大拙 : ミニ英和和英辞書
鈴木大拙[すずき だいせつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すず]
 【名詞】 1. bell 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 

鈴木大拙 : ウィキペディア日本語版
鈴木大拙[すずき だいせつ]

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎(ていたろう)、英: D. T. Suzuki (''Daisetz Teitaro Suzuki'')、1870年11月11日明治3年10月18日) - 1966年(昭和41年)7月12日)は、についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者文学博士)である。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章日本学士院会員
名の「大拙」は居士号である。同郷の西田幾多郎藤岡作太郎とは石川県立専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。また、金沢時代の旧友である安宅産業安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した〔鎌倉文学散歩 安宅夏夫、松尾順造、保育社, 1993、p11〕。
生前、1963年ノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している〔Nomination Database 〕。
== 来歴 ==

石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。
第四高等中学校を退学後、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺今北洪川釈宗演参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒ベアトリス・レインと出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より大拙の居士号を受ける(「大巧は拙なるに似たり」)。
1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラスが経営する出版社オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。
1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦松方三郎等がいる。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学教授に就任して、京都に転居した。同年、同大学内に東方仏教徒協会 を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト 』(''Eastern Buddhist'' )を創刊した(現在も同協会より刊行中)。1939年、夫人ベアトリス・レイン死去。大拙に先立つこと27年であった。
晩年は鎌倉に在住、北鎌倉の東慶寺住職井上禅定と共に、1941年に自ら創設した「松ヶ岡文庫」(東慶寺に隣接)で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中華民国胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1950年より1958年にかけ、アメリカ各地で仏教思想の講義を行った。1952年から1957年までは、コロンビア大学に客員教授として滞在し仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。ハワイ大学エール大学ハーバード大学プリンストン大学などでも講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノス会議」に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。ハイデッガーとも個人的に交流があった。1959年に至るまで欧米各国の大学で、仏教思想や日本文化についても講義を行った。
1960年に大谷大学を退任し名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続けた。
1966年に、絞扼性腸閉塞のため〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)15頁〕東京築地の聖路加病院で死去、没年95。〔晩年の大拙の主治医が日野原重明で、その最後も看取った。なお親しくしていた東慶寺住職だった井上禅定は「大拙は惜しいことをした。(好物の)牡蠣をくって亡くなったのだ」という(http://www.geocities.jp/fujisawa_church/shiryo/bud-chr.htm#(1)) (カトリック藤沢教会のウェブページより。執筆は兼子盾夫・横浜女子短期大学元教授 西洋哲学専攻。兼子は大学生のとき、クリスチャンながら東慶寺で庭の草抜きのアルバイトをしていてその折に井上から聞いたという。なお同様の話は東慶寺での施餓鬼会での法話でも何度かなされている)。なお、日野原のみたてでは腸間膜動脈血栓症の疑いが強かったが、解剖の結果、拘緊性腸閉塞であったという(日野原『死をどう生きたか』中公新書、1983年)。なお『日本的霊性』(岩波文庫、篠田英雄「解説」)での年譜では腸間膜動脈血栓症と表記されている。〕〔大拙が没した際、ニュースを読み上げた宿直明けのアナウンサーが、原稿に禅と書いてあるのをと読み違えて「蝉の研究で有名な鈴木大拙氏が亡くなりました。著書には英文による『蝉と日本文化』…」と、誤って読み上げてしまい進退伺いを出すことになった。が、慰留された、という。(出典:柴田南雄『わが音楽 わが人生』岩波書店1995年、p.279。なお彼は自著の著者紹介で「“”の研究家」と誤植されたこともある。〕
没後は、鈴木学術財団松ヶ岡文庫)が設立された。
墓所は金沢市野田山墓地の鈴木家墓所と、北鎌倉東慶寺、なお同じ境内に、岩波書店初代店主岩波茂雄や、西田幾多郎和辻哲郎安倍能成らの墓がある。毎年命日である7月12日には、大拙忌法要が行われる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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