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鈴木 桃作(すずき ももさく、1901年 - 1941年1月14日)は、日本の映画監督、脚本家である。第二次世界大戦前の京都にかつて存在した脚本家集団「鳴滝組」の一員として、映画史に名を残す。のちに土肥 正幹(どい せいかん)と名乗った。 == 来歴・人物 == 1901年(明治34年)、静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区)に生まれる。兄は地方巡業の興行者であった。上京して法政大学に入学したが、中退した〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「土肥正幹」の項(p.270)を参照。同項執筆は岸松雄、協力児井英生、御代荘輔。〕。 1926年(大正15年)前後の25歳ころのときに京都のマキノ・プロダクション御室撮影所に入社、曾根純三監督に師事した〔。翌1927年(昭和2年)には、同社代表の牧野省三の監督作、月形龍之介主演の『盛綱』や嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)主演の『百万両秘聞 第二篇』に、松田定次やマキノ正唯と並んで「監督補」をつとめたが、1928年(昭和3年)、師匠の曾根が東京・巣鴨町(現在の豊島区西巣鴨)の河合映画製作社へ引き抜かれると、その動きに同行した。 河合では、マキノ時代に知り合っていた八尋不二、三村伸太郎と再会し、親交を結んだ。同世代の2人はすでに脚本家として活躍していたが、鈴木はいまだ助監督であった〔。しかし低予算・大量生産の河合では、鈴木のような助監督もすぐに監督に昇進でき、曾根とともにマキノから引き抜かれた杉狂児・大岡怪童を主演に 『河豚綺譚』で監督としてデビュー、同年6月29日に公開された。おもに三村と、ときに八尋と組み、13本を監督して、河合を退社、1929年(昭和4年)に帝国キネマに入社した。1930年(昭和5年)1本を監督するが、翌1931年(昭和6年)、同社は新興キネマに改組される。 このころ、八尋、三村とともに、京都市右京区鳴滝音戸山町に住んでおり、彼らは近代以前の名称で「鳴滝村」と呼んでいた。1934年(昭和9年)、鳴滝村に集った同世代の脚本家・藤井滋司、監督の滝沢英輔、稲垣浩、山中貞雄、助監督の萩原遼とともに、この8人が脚本集団「鳴滝組」を結成した。ペンネームを「梶原金八」とした。 「鳴滝組」が活動を始めてからの鈴木は忙しくなり、「土肥正幹」と改名して新興キネマで数本撮り、1937年(昭和12年)には、同年4月に解散したマキノトーキーの跡地に来た、「甲陽映画」から独立した今井理輔の「今井映画製作所」に入った。三村の脚本による『雲霧仁左衛門』前・後篇を撮り、初めて注目を浴びた〔。いっぽう「鳴滝組」は、同年の滝沢・山中の上京、翌年の山中の戦死などがあって活動を停止するが、22本の作品を残した。 今井映画の1938年(昭和13年)の東宝への吸収合併のため、同社にいた稲葉蛟児、助監督の御代荘輔とともに東宝映画京都撮影所に入社した〔。同年、山本嘉次郎の学生時代の仲間である小林正の脚本で『花婿組合』を撮るが、それ以降仕事はなく、三村、滝沢、萩原のいる東京へ出る。 1941年(昭和16年)1月12日、東京市世田谷区三軒茶屋のひとり暮らしのアパートで倒れ、御代が駆けつけ看病し、三村らを呼んだが甲斐なく、1月14日に死去した。39歳没。遺骨は兄の手により、神奈川県足柄下郡真鶴町の墓地に葬られた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木桃作」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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