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鈴木 清順(すずき せいじゅん、1923年5月24日〔 - )は、日本の映画監督、俳優。本名は鈴木 清太郎(すずき せいたろう)〔。日活の専属監督として名を馳せ、小林旭、高橋英樹、宍戸錠らを主演に迎えた。『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い。『ツィゴイネルワイゼン』、『陽炎座』、『夢二』の三部作では幽遠な映像美を見せた〔「この三部作には戦後日本映画が到達したもっとも洗練された美意識と、極度にバロック的な精神の結合が見受けられる」(四方田犬彦『日本映画史110年』集英社新書 2014年p.214)。〕。その独特の映像表現は「清順美学」と呼ばれる。 ==生い立ち== 1923年(大正12年)、東京日本橋の呉服屋の長男として生まれる。関東大震災に被災後、本所亀沢町に移る。1941年(昭和16年)東京府立第三商業学校卒業後、旧制弘前高等学校(現弘前大学)に進む。柔道部に入部した。そのときに寮の同室の学生に北一輝の『支那革命外史』を読むように勧められた。1943年(昭和18年)学徒出陣で応召。陸軍二等兵として入隊。フィリピン、台湾を転戦し、陸軍大尉で終戦を迎える。1946年(昭和21年)復員して弘前高校に復学し、1948年(昭和23年)に卒業の後、東京大学の経済学部を受験するが失敗する。同じく東大受験に失敗した仲間に誘われる形で、鎌倉アカデミアの映画科に入るが、同年友人の誘いで松竹大船撮影所の戦後第一回助監督試験を受け、合格を果たす。合格者は1500人中8人だったという〔他に合格したのは、松山善三、井上和男、斎藤武市、中平康、有本正、生駒千里、今井雄五郎らがいた。〕。鈴木の成績は23番目だった。その後、岩沢康徳、佐々木康、中村登らについたのを経て、1951年(昭和26年)からメロドラマを得意とした岩間鶴夫のもとで専属助監督を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木清順」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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