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鈴木百年 : ミニ英和和英辞書
鈴木百年[すずき ひゃくねん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すず]
 【名詞】 1. bell 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [ひゃく]
  1. (num) 100 2. hundred 
百年 : [ひゃくねん]
 【名詞】 1. century 2. hundred years
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

鈴木百年 : ウィキペディア日本語版
鈴木百年[すずき ひゃくねん]
鈴木 百年(すずき ひゃくねん、文政11年〔百年の生年には文政8年(1825年)説もあるが、作品の落款などからこちらが正しいと考えられる(図録(2006)p.9)。〕5月28日1828年7月9日) - 明治24年(1891年12月26日)は、幕末から明治時代にかけて活動した絵師日本画家。鈴木派の祖。幼名は甚之丞、諱は世寿、字は子孝。百年は画号で、別号に大椿翁、大年、狂歌名に志椀斎など。
== 略伝 ==
赤穂出身の儒学者・天文・易学者だった鈴木星海(図書)の子として、京都で生まれる。学者の子として儒学の教養を身に付け、山田梅東に師事して漢詩を学ぶ。一方で10歳頃から絵が器用で、父が天文学に必要な地球図などの図を百年に写させると上手に模写したという。こうした経緯からか、14歳頃から父から百年の号を与えられて、絵師としての修行を積むことになる。絵は父が土御門家に出仕した関係で交流のあった岸岱岸連山に教わったとされるが、正式に入門したわけではなく基本的に独学だった。彩色法も土佐家に手伝いに行って覚えたという。特に与謝蕪村呉春を好み、小田海僊日根対山を学び、大西椿年に私淑した。京都市立芸術大学芸術資料館にある百年の粉本には、中国絵画や蕪村の俳画南画の模写、円山派の写生図などを広く学んだ跡が見える。更に各地を遍歴し、実景の写生や古画の模写をして画技を磨いた。14歳から16歳にかけて父の実家の赤穂で、医師の中島意庵に師事している。
百年の画業は早くから評価され、15歳で『古方薬品考』という本草書に大家に肩を並べて挿図を手掛けている。19歳で御堂御殿の杉戸絵と御所から進呈された屏風絵を描いている。20歳で『皇都書画人名録』に、25歳で『平安人物志』に掲載されている。京都の絵師は、禁門の変による戦火でパトロンが被害を被ったためあまり振るわなくなる一方、百年のパトロンは被害を受けなかったため順調に画名を伸ばしていった。明治初期の文人画流行期も、持ち前の詩文や漢文学の教養を活かした文人画を多く描いて乗り切った。明治13年(1880年京都府画学校開校に伴い、幸野楳嶺と共に北宗の副教員に任命されるが、半月で退任している。百年の性格は、温和・理性的で、自らは文人でもあるという意識があり、富岡鉄斎江馬天江頼支峰山中信天翁などの文人たちと交流した。詩作の他に狂歌も好み、晩年には狂歌を交えた手紙を方方に書き送っている。
還暦を迎えた明治20年(1987年)頃から各地を遊歴、明治23年(1890年東京に移り、翌年秋田伝神画会に出席するため秋田へ赴いた帰路、病に罹り東京都下谷区池之端で64歳で没した。息子の松年によって一心院に妻・春香と三男・萬年と共に眠っている。百年の墓前の石にはが穿ってあり、松年が墓参の度に墨をすって短冊に松竹梅の絵を描き、献花代わりに供えたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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