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鈴木 良(すずき りょう、1934年9月 - 2015年2月16日)は、日本の歴史学者。専門は日本近代史・部落問題など。立命館大学教授、部落問題研究所理事、国民融合をめざす部落問題全国会議代表などを務めた。主な著書に『近代日本部落問題研究序説』、『水平社創立の研究』がある。 == 来歴・人物 == 1934年、神奈川県川崎市に生まれる。1945年の敗戦時に国民学校5年生、1947年の新制中学校の発足の時に中学校1年生であった。明治学院中学校、神奈川県立川崎高等学校を経て、1953年に京都大学文学部に入学する。同級生には、石躍胤央(のち徳島大教授)、大山喬平(のち京大教授)、河音能平(のち大阪市大教授)、芝原拓自(のち阪大教授)、中野玄三(のち嵯峨美術短大教授)、ひろたまさき(のち阪大教授)、安丸良夫(のち一橋大教授)らがいた。当時の学生運動が活発な雰囲気のなかで学生時代を過ごし、1957年に文学部史学科を卒業。卒業論文は「明治10年代における外国貿易とブルジョアジー」(『日本史研究』35号、1958年1月に掲載)であった。同年、大学院文学研究科修士課程に進学し、1959年に修了(修士論文は「日本近代工業の形成」で〔京都大学大学院文学研究科図書館 昭和33年度(昭和34年修了) 修士論文題目 〕)して博士課程に進学。大学院時代は、井上清・堀江英一らに学びながら、日清・日露戦争期の帝国主義に関する論文を『歴史学研究』や『日本史研究』といった学会誌に相次いで発表して活躍した。また、民科京都支部歴史部会などを拠点にマルクス・エンゲルスの読み直しを行った。1959年、日本共産党に入党。 1963年、研究・経済上の行き詰まりのなかで京大大学院博士課程を満期退学し、12月に中塚明の後任として奈良女子大学文学部附属高等学校教諭となる。以降、数年の間研究の第一線から遠ざかった。高校教師時代は、仕事の傍ら教職員組合運動、文化財保護運動、労働者教育運動を行った。また、部落問題に出会うのもこの頃である。1966年の文化厚生会館事件では部落問題研究所側につき、中国に接近した井上清から距離を置くようになるなど、部落解放運動が分裂する時期にあって一貫して日本共産党の立場を支持。1967年の歴史科学協議会の結成に参加し、この頃から再び研究の第一線に復帰する。翌年「天皇制と部落差別」(『部落』226号、1968年2月)から部落問題について議論を行うようになり、『部落問題研究』などに論文を発表した。1970年代の前半には奈良県によって進められた『奈良県同和事業史』や『奈良県水平運動史』、部落問題研究所で進められた『水平運動史の研究』全6巻に関わり、阪本清一郎や木村京太郎といった戦前以来の活動家の聞き取りを行った。 1970年代半ばに日本共産党や北原泰作らの部落解放運動の活動家から国民融合論が提起されるなかで、1975年9月に結成された国民融合をめざす部落問題全国会議(国民融合全国会議)の常任幹事となる。被差別部落の歴史研究でも、従来の経済体制・国家体制から把握するのではなく、地域の社会関係から分析する方法を提起し、「天皇制的地域支配」を提起した。こうした研究は『近代日本部落問題研究序説』(1985年)に結実する。同年、奈良女子大附属高校を退職し、立命館大学産業社会学部教授となる。同大学では「社会史」の授業やゼミナールを担当したほか、西園寺公望や自由主義思想の研究、歴史教育や文化財についての発言を行っている〔篠田武司「鈴木良先生のご退任にあたって」(『立命館産業社会論集』36巻1号、2000年6月)〕。 2000年に立命館大学を退職後も部落問題研究所理事を続け、その後の部落問題研究は『水平社創立の研究』(2005年)にまとめる。この他、どんぐり福祉会理事長、東大阪文化懇話会代表を務めるなど地域の福祉や文化活動に尽力した。2015年2月16日、肺炎のため東大阪市内の病院で死去、80歳。葬儀は18日に行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木良」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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