|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 鈴 : [すず] 【名詞】 1. bell ・ 木 : [き] 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber ・ 華 : [はな] 【名詞】 1. flower 2. petal
鈴木 華邨(すずき かそん、安政7年2月17日(1860年3月9日) - 大正8年(1919年)1月3日)は、明治から大正にかけて活躍した日本画家。名は茂雄、通称は惣太郎。華邨は号で、しばしば華村とも表記される。別号として「魚友」、「忍青」〔異文化交流のひとこま 村松定史 東京成徳大学〕 を用いた。はじめ容斎派の人物画を学んだが、のちに四条派から土佐派や浮世絵の要素を加えた独自の画法を立ち上げ、特に花鳥画に優れた。20世紀初頭ヨーロッパで北斎以来の日本画家とされ、もっとも知られた日本画家と称された。小林一三が評価していたため、大阪府池田市の逸翁美術館にまとまって収蔵されている。 == 略伝 == 江戸下谷池ノ端茅町に、加賀藩出入りの呉服商 「武蔵屋」 鈴木清次郎の長男として生まれる。明治7年(1874年)14歳で菊池容斎の高弟中島亨斎に師事した。翌8年フィラデルフィア博覧会事務局図画係に傭われ、明治9年(1876年)勧業寮編輯係を務める。また、このころ起立工商会社で図案係として働き、陶磁器や漆器などの図案を作成した。 明治10年(1877年)第1回内国勧業博覧会に 「金髹図案」 を出品し、花紋賞メダルを受賞。明治14年(1887年)第2回内国勧業博覧会にも 「群亀図」 を出品し褒状。その後は画業に専念し、明治16年(1883年)龍池会主催の第2回パリ日本美術縦覧会において選抜揮毫者として指名を受けた。翌年 「大船碇泊ノ図」 を出品。明治19年(1886年)4月鑑画会第二回大会に 「山水」 を出品し受賞。 明治20年(1887年)ごろから単行本や雑誌の口絵・挿絵に健筆を振るい、明治22年(1889年)『新小説』第一巻第一号の表紙を任される。同年、親交のあった納富介次郎に招かれ、石川県立工業学校(現・石川県立工業高等学校)の絵画と図案意匠を担当する教諭に就任。同26年まで在職し、写実を重んじる画風で後進の育成に努めた。 明治31年(1898年)に梶田半古、松本楓湖らとともに日本画会の結成に参加し、同年の日本美術院創設にあたっては評議員となり、共進会の審査員を勤めた。明治33年(1900年)パリ万国博覧会に 「山水」 「雪中鷹狩」 「月下魚網」 を出品し銅牌を受賞。明治34年(1901年)春の院展第5回で 「牡丹睡猫」 が銀賞、翌年春の第7回では 「布袋」 が銀牌を受賞。 明治39年(1906年)1月、小林一三らが15名で華邨、寺崎広業、川合玉堂を後援する鼎会を発足する。 また明治40年(1907年)の第1回文展に 「平和」 を出品し、三等賞。明治41年(1908年)巽画会の審査員となる。明治43年(1910年)の日英博覧会に 「雨中渡船」 を出品し、金牌を受賞。 大正8年(1919年)、東京・雑司が谷の自宅で肺炎療養中に腹膜炎を併発し死去した。法名は清廉院華邨永豊居士。墓所は港区の宝生院。 文展や博覧会での入賞の他、尾崎紅葉 『なにがし』 『不言不語』、幸田露伴 『新羽衣物語』 口絵 『天うつ浪』 第三口絵、泉鏡花 『小萩集』 口絵 『錦帯記』 『照葉狂言』 口絵、など書籍の口絵や挿絵を手がけた。門下の梶田半古とは最も親しく、長男光雲を弟子入りさせている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木華邨」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|