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鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月16日 - 1989年(平成元年)7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人とされる。 == 略歴 == 千葉県の地主である鈴木八十吉の長男として生まれ、東京の成蹊学舎、京北中学校を卒業する。 元々は満州の森林開発に携わることを志望していた事から、東京帝国大学農学部を志望していたが、直前に腕試しの為に受験した陸軍士官学校に合格した事から、当時陸軍騎兵大佐だった伯父の加瀬倭武(陸士旧10期、陸大10期)の勧めもあって陸士へ進学することとなった。 1910年(明治43年)に陸軍士官学校(22期)、1917年(大正6年)に陸軍大学校(29期)を卒業した。陸大では英語と中国語を専攻し、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在した。 1927年(昭和2年)11月、深山亀三郎らと共に木曜会を結成。1929年(昭和4年)5月19日、永田鉄山・東條英機・板垣征四郎・石原莞爾ら陸軍中堅将校が結成していた二葉会と木曜会が合流して結成された一夕会のメンバーにもなった。1931年(昭和6年)三月事件に参加する。 鈴木は前述の通り、「背広を着た軍人」と呼ばれていたように、実戦部隊での経験はあまり無く、対外的・官僚的な仕事に携わるケースが多かった。1931年(昭和6年)1の満州事変勃発に伴い、軍務局勤務になると同時に、自らが代表となって満蒙班を立ち上げ、ほぼ独断といった状態で満洲政策を推し進めることとなる。その際、白鳥敏夫や森恪と連携して国際連盟脱退論を主張し、軍部における連盟脱退推進派としてその名が知れ渡るようになる。 1933年(昭和8年)に情報機関の新聞班長となるが北京駐在以来、古野伊之助との縁も深い。古野は企画院時代に鈴木門下となった逓信官僚の奥村喜和男とも縁が深い。 1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、山下奉文と共に青年将校の説得に当たった。この時期の鈴木は皇道派に近いポジションにあり事件の青年将校にも同情的であったが、事件以降、巧みに統制派に鞍替えし、やがて東條英機の側近にのぼりつめていった。同じく皇道派に近かった山下が事件以降に不遇に陥り、逆に統制派だった武藤章が後に東條と対立して山下の部下に転じたケースとは対照的である。このことから鈴木を陸軍内部で稀にみるオポチュニストだとする見解も少なくない。 1938年(昭和13年)4月14日に第3軍参謀長、同年12月16日、興亜院政務部長に就任して(~1941年4月)。1940年(昭和15年)8月1日、中将に昇進した。同年12月23日、興亜院総務長官心得に就任した。1941年(昭和16年)4月4日、予備役編入となる。それと同時に、第2次近衛内閣国務大臣兼企画院総裁に就任した。以後、第3次近衛内閣・東條内閣でそれぞれ国務大臣を務める。東條内閣の際には、イギリスのインド植民省を真似て大東亜省を設立して、外務省のアジア関係の権限を全て陸軍が奪い取り、自らが事実上の外務大臣に成り上がろうとしたが、大臣には青木一男が任命されて、失敗に終わっている。 東條内閣時、帝国議会の閣僚席は内閣総理大臣の隣で、東條英機に近い重要閣僚であることを印象づけている。東條内閣発足時の記念撮影でも、東條の横に写っている。ニュース映画では、農林大臣井野碩哉が進み出ようとするのを遮って、最前列に出たのが確認できる〔日本ニュース第72号|NHK戦争証言アーカイブス 〕。 太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)10月-12月の御前会議において、日本の経済力と軍事力の数量的分析結果に基づき、開戦を主張した。会議において鈴木は、ABCD包囲網等により石油が禁輸されてしまった以上、3年後には供給不能となり、産業も衰退し軍事行動も取れなくなり、支那だけではなく満洲・朝鮮半島・台湾も失ってしまうだろう、と主張した。故に、天皇に「座して相手の圧迫を待つに比しまして、国力の保持増進上有利であると確信致します」と述べたうえで、米英蘭と開戦して、南方資源地帯を占領することが必要不可欠だ、ということを説明した。 また、戦後の鈴木へのインタビューによれば〔<遂行された国策「開戦」>三国一朗ほか編『太平洋戦争前期 昭和史探訪.3』(番町書房のち角川文庫)〕、企画院総裁就任の当初、船舶の損耗率の問題で対米戦争は困難という分析結果を発表していたが、東條内閣の成立と同時に、海軍が責任を持って損耗率を抑えるから大丈夫だと主張したため、「心配はない。この際は戦争した方が良い」という見解に変わった、と述べている。加えて、前述の通り、物資がないために開戦に踏み切ったのであって、日中戦争が泥沼化した時点で、既に開戦は不可避だったと認識していた、とも語っている。 1942年(昭和17年)2月に大東亜建設審議会幹事長に就任した。1943年(昭和18年)10月8日に貴族院議員に就任して、内閣顧問、大日本産業報国会会長を務める。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木貞一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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