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鈴木 重秀(すずき しげひで)は、紀伊国の国人。雑賀党鈴木氏の一族で、鉄砲傭兵集団雑賀衆の有力者。通称は孫一(重秀本人の自著による)。 == 概要 == 雑賀孫一の経歴を構成する一人といわれるが、他の「孫一」(雑賀衆頭領の名とされる)と事跡が混同されることが多く、史料自体も乏しいことから、「孫一」の中からその足跡を識別するのは容易なことではない。 また、一般的には「雑賀孫一」として雑賀衆の頭目と称されることが多いが、雑賀衆全体を支配する指導者だった訳ではなく、そもそも雑賀衆自体がそこまで統制された組織ではなかった。石山合戦講和交渉の段階でも、「三下間」(頼廉、仲之、頼龍)に対して出された起請文は「雑賀一向宗」の四宿老〔鈴木同書、pp.144-5。信徒組織の指導者。宮本(湊)平大夫、岡太郎次郎、松江源三大夫、嶋本(狐嶋)左衛門大夫。〕と「雑賀衆」七人(孫一はこちらに含まれる)の連名であった〔鈴木同書、pp.126-7〕。司馬遼太郎の小説『尻啖え孫市』にあるような「七万石の大名」というのも、それを伝えた『紀伊続風土記』自体が明らかな間違いとして指摘する通りである〔鈴木同書、p.137〕。ただし、織田・本願寺双方の文書が伝えるように、その軍事的才能は当時から高く評価されており、顕如からも別格の扱いを受けていたのは確かである〔鈴木同書、pp.144-5〕。 生没年も明らかではないが、同じ雑賀の土豪である佐武伊賀守の『佐武伊賀覚書』によると、1557年頃のこととされる名草郡の戦い(和佐荘と岩橋荘の間の土地争い)では、既にある程度の有力者として活躍していることから、その頃には20歳代には達していたものと考えられる〔鈴木同書、pp.139-140〕。 家族関係も信頼できる史料はない。父は「鈴木佐大夫」(『紀伊続風土記』)説が一般的だが確かではなく、「鈴木左近大夫」(「太田水責記」)、「鈴木次郎左衛門光善」(『寛政重修諸家譜』)、「鈴木孫市重意」(『畠山記』)など、どれも信頼性に欠ける〔鈴木同書、pp.136-7〕。子は「鈴木孫三郎重朝」ともいわれるが、重朝の家譜自体が、彼以前を「其先未詳」としている〔鈴木同書、p.164〕。『佐武伊賀覚書』によると、伯父(叔父?)に「宗忠」という人物がいたらしい。 『東京湯川家文書』永禄五年七月の起請文に「十ヶ郷 鈴木孫一殿」とあるのが年紀の確かな資料での初出。〔鈴木同書、pp.137-8〕(なお、十ヶ郷は和泉国に程近い紀ノ川北岸の河口近くであり、一般に馴染み深い「雑賀荘」はその対岸の、紀ノ川と和歌川と和歌浦に囲まれた地域を指す)。本拠は平井(現在の和歌山県和歌山市平井)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木重秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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