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鈴木 香雨(すずき こうう、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1979年〈昭和54年〉8月24日)は、東京都出身の書家。名は謹爾、字は子謙、号は香雨。四男の鈴木史楼は書道史家・評論家。長女の小香は書家。 == 経歴・業績 == 1890年、東京浅草に父菊蔵、母むげの長男として生まれる。逓信省勤務の父の同僚であった書家近藤雪竹の影響もあり、書に興味を抱く。 1902年、東京府第一中学校(現・都立日比谷高等学校)に入学。丹羽海鶴に師事。在学二年生の折、丹羽先生の推挙により、巌谷一六先生の葬儀に勲章を捧持し参列。兄弟弟子には、田代秋鶴、鈴木翠軒がいる〔書道教授を目指す弟子達を前に、ある日の勉強会の事であった。丹羽海鶴門下の同胞田代秋鶴君と「書道教授」の看板を掲げる教室を二~三軒訪ね、「弟子になりたいのだが…」と指導者の手本を見せて貰い、腕の品定めをして歩いたとの懐古談。剣客の世界でいうところの道場破りの真似事をしたとの話だった。(長女小香談)〕。のちに島村節庵に学ぶ。寺内正毅元帥の秘書官だった島村先生に推されて朝鮮総督府属官として上奏文浄写を専任する。 1916年、文部省習字科教員検定試験(文検)合格。 1917年、日下部鳴鶴の門に入る。以来、書に貢献する功績は枚挙に遑がないが、特筆すべきは、大正天皇大礼記録謹書、及び『透視式説明 書道要訣』を執筆し、書道研究上に一大革新を与え、宮内庁及び各宮家の御買上を賜わる〔「鈴木香雨小伝」『鈴木香雨作品集』鈴木史楼編、大和書道院、1975.8〕。 その後、決意するところあり、一切の中央書壇に関与しなかった〔「鈴木香雨小伝」『鈴木香雨作品集』鈴木史楼編、大和書道院、1975.8によれば、「透視式書道要訣を上梓し、全国は勿論宮内庁及各宮家御買上の栄を得て、書道界に大きく話題を投げたことを嬉しく思っているが、反面取りかえしのつかない問題にぶつかった。丹羽先生の激怒を買ったことである。私の処女出版に当然丹羽先生の題字をいただくべき性質のものだったのだが、教文社の手落ちによりはたけちがいの山口半峰先生の題字『書は心画也』を使ったことは、然も五十数版を重ねて了ったのでは、所謂飼犬に手を噛まれたというか、子飼の弟子にうら切られたというか、海鶴先生の怒は当然のことと思う。私は期する所あり、爾来一切の団体に関与することを避けて、一人此の道を行くことを誓って今日に及んでいる」とある〕。 1945年、京華学園の書道教諭に就任。大和書道院主宰〔のち、長女小香が継承。2003年解散〕。機関誌『和光』発行。 1951年、文部省検定教科書筆者となる。 1962年、京華学園退職。 以後、大和書道院にて門下生の訓育に努める。 三井銀行・第一勧業銀行・三井石油・同造船・同鉱山・同不動産・朝日火災・日本団体生命など十指をこえる職場の書道部を指導。 関係団体:日本書道連盟参与、全日本教育書道協会総務、全国高等学校書道研究会常任理事、社団法人日本学生書道振興会参与、中華民国芸苑評選員 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木香雨」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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