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銭 弘倧(せん こうしゅう、929年-973年)は、十国呉越の第4代王。文穆王銭元瓘の七男。 == 生涯 == 天福12年(947年)、兄の忠献王銭弘佐が薨去したが、その子が幼少であったため銭弘倧が王位を継承した。当時は遼の太宗耶律堯骨が後晋を滅亡させて中原を占拠しており、呉越もその臣と称していたが、遼軍の撤退後は後漢に臣従してその正朔を奉じている。 忠献王の在位時は、王が幼少であったことに乗じて諸将の専横があったため、即位した忠遜王は諸将を抑制する政策を実施した。しかし改革が性急過ぎたため、自らの地位に危機感を抱いた内牙統軍使胡進思らの反発を招いた。天福12年12月30日(948年2月12日)、胡進思らは夜宴に乗じて政変を起こし、忠遜王は軟禁され、異母弟の銭弘俶(忠懿王)が擁立された。胡進思は間もなく病没したが、忠遜王の軟禁状態は継続することとなる。 広順元年(951年)、忠懿王は忠遜王を東府越州(現在の浙江省紹興市)に移し、その地に宮殿を造営して厚遇している。後の政変を防ぐために臣下が殺害を勧めたが、忠懿王は泣いて拒否した。 開宝6年(973年)に薨去、享年45。 子の銭昱、銭易は忠懿王に引き取られて養子として育てられ、宋に帰順後は共に進士となり、官僚として宋に仕えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「銭弘シュウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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