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銭 昌照(せん しょうしょう)は中華民国・中華人民共和国の政治家。字は乙藜。 == 事跡 == 若年時代にイギリスに留学し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで修士号を取得した。1922年から1924年までオックスフォード大学で経済学を研究している。 帰国後の1928年(民国17年)3月、銭昌照は国民政府で外交部秘書、文官処秘書となる。1931年(民国20年)6月、教育部常務次長に昇進した。その翌年、国防設計委員会副秘書長に転じ、1935年(民国24年)5月、軍事委員会資源委員会副秘書長となっている。1940年(民国29年)5月、資源委員会(この時点で経済部に移管)副主任委員に昇進した。1941年(民国30年)9月、行政院全国水利委員会委員となり、1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央執行委員候補となった。 1946年(民国35年)5月、銭昌照は資源委員会主任委員に昇進し、翌月には国民政府最高経済委員会委員も兼任した。10月、資源委員会が行政院直属に移ったことに伴い、主任委員から委員長に改められている。1947年(民国36年)4月、国防部科学委員会委員となった。その翌年の秋に出国して海外へ視察に赴いている。 1949年6月に帰国すると、銭昌照は香港経由で北平に向かい、中国共産党政権への参加意思を表明した。中国人民政治協商会議(政協)第1回全体会議代表(後に第1期全国委員)となっている。中華人民共和国成立後は、全国人民代表大会代表(第1~4期)、全人代常務委員会法案委員会委員、政務院財経委員会委員兼計画局副局長を歴任した。さらに政協第5期・第6期には全国委員会副主席を務め、全人代でも法制委員会委員となった。また、中国国民党革命委員会(民革)にも加入し、後に中央副主席を務めている。 1988年10月14日、北京市にて病没。享年90。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「銭昌照」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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