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銭村 健次(ぜにむら けんじ、1925年頃 - 没年不明)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)ホノルル生まれ〔#池井240-258頁〕、広島県出身の元サッカー選手(FW)。慶應義塾大学卒。 == 来歴 == 父は広島出身の日系人で「日系人野球の父」と呼ばれた銭村健一郎。3人兄弟の長男で、2人の実弟はプロ野球選手として広島カープに在籍した銭村健三と銭村健四。 父・健一郎がカリフォルニア州フレズノにあった「フレズノ・アスレチッククラブ(フレズノ野球団)」でプレーしていた時、健一郎の両親から「初孫だからホノルルに来て産め」と言われハワイに戻って健次が生まれる〔。 健一郎自身が"一郎"なので、長男に"健次"、二男に"健三"、三男に"健四"と付けた〔。健一郎は野球の夢を追いかけ夫婦で健次生後4ヶ月でフレズノに戻ったため、健次はホノルルの祖父母に育てられ、7歳のとき、健次のみ広島に帰国(帰国年は1932年頃と考えられる)〔〔。当時、成功した日系人は「子供の教育は日本で受けさせ、卒業したら帰ってきてもらう」いわゆる帰米二世の道をとった〔。このため健次は英語はほとんど喋れなかったという〔。明治大学硬式野球部の名選手として活躍した従兄弟・銭村辰巳の勧めで〔旧制広島修道中学(現修道高校)に進学した。健次だけは野球をやらず、サッカーをして修道中時代の1940年、第22回全国中等学校蹴球選手権大会(現全国高等学校サッカー選手権大会)に出場している。 卒業後、慶應義塾大学予科に進み在学中、ヒラリバー日系人収容所に入れられていた父・母・弟2人の銭村一家〔の帰国を重光葵外務大臣に懇願した〔。 1944年に慶應義塾大学時代に海軍に志願し、海軍航空隊予備生徒となり、三重、横須賀、佐世保海軍航空隊と任地を移動し本土防衛のため待機中終戦を迎えた〔#池井254-259頁〕。広島原爆投下の日には佐世保にいた〔。もし航空隊に志願していなければ、学徒出陣などで徴兵され広島なので陸軍第5師団入隊して、広島で原爆投下に遭っていた可能性が高く、修道中学の同級生は原爆で大勢死んだ〔。 終戦後の1945年12月慶應義塾大学に復学し、慶應義塾大学体育会ソッカー部では主将も務め〔〔同郷の重松良典を慶應に勧誘している〔。健一郎に野球のコーチを受けた二世の進駐軍の兵隊が何人もジープで三田の慶應キャンパスへやって来て「ケンジ・セニムラはどうしているか」と聞いてきた〔。健次の無事を喜んだ健一郎は、物が無くて困っているだろうと、ライターの石を進駐軍の教え子に託して送ってくれた。戦後すぐの時点でライターは貴重品、闇市で売って学費や食べ物に変えた〔。 1948年大学を卒業後、東洋工業蹴球部(現サンフレッチェ広島)に所属する〔。1951年全広島の一員としてスウェーデンのプロチーム・ヘルシンボリIFと対戦した。この全広島は渡部英麿、福原黎三、下村幸男らに、小畑実ら東洋工業の選手も参加した強力チームだった。 一方、東洋工業では右インサイドFWとして下村、重松、樽谷恵三らと活躍。1954年には実業団チームとして初めて天皇杯決勝に進出した。母校の慶應BRBとの決勝は、第4延長までもつれ疲労のために銭村が倒れるという、日本サッカー史に残る死闘を演じるも敗れた(3-5)〔。翌1955年には全日本実業団でも初の決勝進出。田辺製薬に0-2と敗れ準優勝に終わったが翌1956年には田辺製薬の7連覇を阻み初優勝、チームに初の全国タイトルをもたらした。 1950年朝鮮戦争に参加した弟・健四が病気治療で韓国から京都の病院に入院した際、健次が駆けつけ、ハワイの祖父母宅にいた頃、生後8ヶ月で会って以来、23年ぶりに対面したというから〔健次はアメリカ本土、フレズノなどへはそれまで一度も行ったことがなかったものと思われる。なお、1953年2人の弟がカープに入団した時、健次が2人の世話をし3人で暮らしている〔。 サッカー選手引退後も定年までマツダに勤務した〔#池井264頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「銭村健次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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