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銭皇后(せんこうごう、1427年8月1日(宣徳2年6月29日) - 1468年(成化4年))は、明の第6代・第8代皇帝である英宗の皇后である。 海寧の出身。正二品都督同知の銭貴の娘として生まれた。母は陳氏〔銭貴の正妻ではなく、関係は不明。封誥が成化8年までなかった。銭貴の正妻・包氏(正四品燕山衛指揮僉事の包諒の娘)が、婚礼の際に実母のふりをした。〕。 正統7年(1442年)、太皇太后張氏に選抜されて英宗の皇后となる。英宗を一途に愛した。土木の変では英宗が捕虜になった上、兄弟2人(銭欽、銭鐘)が戦死した〔銭貴はすでに没しており、この2人以外に兄弟はいなかったため、銭氏の実家は一度断絶した。しかし翌年、銭鐘の遺腹の子が生まれた。〕。仁寿宮(先帝の妃嬪の居所)にうつされた銭皇后は、ショックから濡れた地面に寝て泣き崩れ、日々と天へ向き涙ながらに訴求し、身体に障害を患い、右眼を失明し、また足が不自由となったともいう。奪門の変で英宗が重祚すると、再び皇后として立てられた。 英宗と銭皇后の間に生きている子供はなかった〔英宗の夭折した長女(重慶公主とは別人)は生没年、実名、位号、諡、実母について記録が全くないが、銭皇后が生母の可能性はある。〕。このため周貴妃(孝粛皇后)に太子の朱見深(成化帝)が生まれると、銭皇后は皇后の地位をめぐって周氏と争った。英宗は崩御する直前に、銭皇后を廃位しないよう遺命した。銭皇后は英宗の崩御から4年後の成化4年(1468年)に死去した。死後、英宗の遺命による合葬は、皇太后となった周氏の反対で実現されずに終わった。孝荘献穆弘恵顕仁恭天欽聖睿皇后の諡号を贈られた。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「銭皇后」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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