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錦絵新聞(にしきえしんぶん)とは、日本の明治初期の数年間に発行されていた視覚的ニュース・メディア〔『大阪の錦絵新聞』12ページ。〕で、一つの新聞記事を浮世絵の一種である錦絵一枚〔錦絵とは浮世絵版画の中でも最も成熟した形式で、複数の色版の重ねずりにより錦のように美しい彩色が可能な版画である。〕で絵説きしたもの。グラフィックとしての錦絵に着目して新聞錦絵と呼ばれることもある〔小野秀雄は「錦絵新聞」「新聞錦絵」の両方を使い分けた。高橋克彦はほぼ一貫して「新聞錦絵」の語を用いている。〕。 錦絵新聞は、浮世絵の特色のうち「報道的な性格」を強く持っていた。ほとんどが明治7年(1874年)から明治14年(1881年)にかけてのごく短期間に発行され、やがて小新聞に押されて姿を消していった。 == 歴史と性格 == 明治初期に東京で創刊された「新聞」は東京土産になるほど流行したが、知識人層向けで振り仮名や絵もなく、一般大衆には読みにくいものであった。この「新聞」を浮世絵の題材に取り上げて、平仮名しか読めない大衆も絵と平易な詞で理解できるようにしたものが錦絵新聞である。土屋礼子は「非知識人層を読者対象とした小新聞に連なるニュース媒体であった」と位置づける〔『大阪の錦絵新聞』13ページ。〕。錦絵新聞は近代ジャーナリズムの勃興期に、新聞というものを一般大衆の身近なものにしたメディアであった。 最初の錦絵新聞は、1874年(明治7年)7-8月ごろに発行された〔土屋礼子は『大阪の錦絵新聞』19ページで原秀成の論文「新聞錦絵と錦絵新聞—その出版状況と構造の変化—」(『年報・近代日本研究・12 近代日本と情報』1990年)における推測「明治7年8月」を紹介。〕〔高橋克彦は『新聞錦絵の世界』(1986年)22ページで7月としている。〕。東京の版元「具足屋」が東京日日新聞の記事を題材に、落合芳幾〔落合芳幾は浮世絵師であると同時に、複数の新聞創刊にも参画した新聞人でもある。〕の錦絵にふりがなつき解説文を添えて錦絵版の「東京日日新聞」として売り出したものである。錦絵というグラフィックを用いてセンセーショナルな事件を報じるメディアであり、「猟奇的・煽情的な内容」〔小林忠・大久保純一『浮世絵の鑑賞基礎知識』110ページ。〕は「現代の写真週刊誌に似た性格のもの」〔『幕末・明治のメディア展』41ページ。〕であるとされた。 錦絵版東京日日新聞は、錦絵のわかりやすさと「新聞」の目新しさ、トピックの面白さで大変な人気を得た。これに倣って、郵便報知新聞の記事に月岡芳年の錦絵を添えたもののほか、東京、大阪、京都などの版元から約40種もの錦絵新聞が続々と誕生した。しかし、錦絵新聞同様の平易な文章と内容に、錦絵より作成に時間のかからない単色ずりの挿絵を組み合わせた小新聞(こしんぶん)が発行されるようになると、これに押されて錦絵新聞は誕生から10年もたたないうちにほとんど姿を消した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「錦絵新聞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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