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錦織 圭(にしこり けい、1989年12月29日 - )は、島根県松江市出身の男子プロテニス選手。日清食品所属。乃木小学校、開星中学校、青森山田高等学校卒業。身長178cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 ATP世界ランキング自己最高位はシングルス4位(アジア人男子歴代最高位)、ダブルス160位。アジア人男子初のシングルス世界ランキングトップ10入り。これまでにATPツアーシングルスで日本人最多の11度の優勝を挙げている。ダブルスでは準優勝を1度記録している。 男女通じて日本人初、アジア人男子選手初のグランドスラム4大大会シングルスファイナリスト。また、アジア人男子選手初のATPワールドツアー・ファイナル出場者。2014年マドリード・マスターズ、2016年マイアミ・マスターズ準優勝。日本人男子史上2人目のATPツアー優勝者。日本人男子史上唯一のATPツアーシングルス複数優勝者。 == 選手経歴 == === ジュニア時代 === 1989年12月29日、島根県松江市に生まれる。5歳からテニスを始め、松江市内の「グリーンテニススクール」に通い始める。2001年に全国選抜ジュニアテニス選手権大会(12歳以下の部)、全国小学生テニス選手権大会、全日本ジュニアテニス選手権大会(12歳以下の部)の3大会で優勝。錦織の活躍はテニス関係者の目に留まり、松岡修造が開催する強化合宿「修造チャレンジ」に参加。日本テニス協会会長・盛田正明が運営する「盛田正明テニス・ファンド」に練習生として招かれるようになる。2003年、ゲイブ・ハラミロのスカウトを受け、IMGニック・ボロテリー・テニスアカデミーの留学対象選手となり、盛田ファンドの奨学金制度を受けて渡米〔ひとり息子は13歳で海を渡った 世界の錦織圭から島根の両親(父は土木技術者、母は主婦)へ 〕。以降アメリカ合衆国フロリダを活動拠点としている。 2003年はオレンジボウル選手権14歳以下の部で準優勝。ジュニアG1大会で2度優勝。2004年には男子ジュニア国別対抗戦のジュニア・デビス・カップに三橋淳・喜多文明と共に日本代表として出場。前年大会では11位だった日本を過去最高の5位入賞に押し上げた。ジュニアG3大会で優勝。2005年にはIMGアカデミーのエリートコースに昇格。専任コーチを雇用する〔『Number』869号(2015年1月22日号)〕。10月、世界スーパージュニアテニス選手権大会でジェレミー・シャルディーとの準決勝まで進出。この大会では三橋淳と組んで出場したダブルスでも準決勝まで進出し単複ベスト4の成績を収めた。 2006年はピーター・ポランスキー(カナダ)と組んで出場した1月の全豪オープン男子ジュニアダブルスでベスト4進出の好成績を収めるとエミリアノ・マサ(アルゼンチン)と組んで出場した6月の全仏オープン男子ジュニアダブルス部門で、日本男子史上初の4大大会ジュニアダブルス優勝の快挙を果たした。なおこの大会では男子ジュニアシングルスでも8強に入っている。また、この大会の男子シングルス決勝に進んだラファエル・ナダル(スペイン)が、決勝前日の練習相手に仮想ロジャー・フェデラー(スイス)として錦織を指名し話題を呼んだ。またこの年からジュニアサーキットと並行して本格的にシニア大会にも出場するようになり、この年はフューチャーズ大会で優勝1回、2回のベスト4の成績を収め、シングルス年度末ランキングを603位で終了。この時点で日本人選手10位につけており、既に日本トップ選手の一人となっていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「錦織圭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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