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録音技師(ろくおんぎし、)は、映画を中心とした映像製作における音響の録音・設計・表現を行う職能における総責任者である。映画製作のシステムは国によって異なり、本項では特に日本の録音技師について詳述する。 == 略歴・概要 == 録音技師は、サイレント映画の時代が終了し、トーキーの時代の到来とともに、1920年代後半から1930年代初頭にかけて誕生した職能である。 1931年(昭和6年)、日本初のトーキー作品とされる松竹キネマ蒲田撮影所製作、五所平之助監督の『マダムと女房』が発表されたが、同作のクレジットには「録音技師」の文字はなく、「音響記録」として土橋式トーキーの土橋武夫と土橋晴夫、「ミキサー」として狩谷太郎の名がクレジットされている〔マダムと女房 、日本映画データベース、2009年11月3日閲覧。〕。土橋兄弟は、翌1932年(昭和7年)、同撮影所製作、島津保次郎監督の『上陸第一歩』では「録音」とクレジットされている。一方、同撮影所の茂原式トーキーで知られる茂原英雄は撮影技師であり〔茂原英雄 、日本映画データベース、2009年11月3日閲覧。〕、録音の職能は、同撮影所では、トーキー当初の1930年代には、撮影部に属していた。 1934年(昭和9年)、マキノ・プロダクション解散後3年間、東京の映音でトーキーの開発を行っていた映画監督のマキノ雅弘(当時マキノ正博)〔『映画渡世 天の巻 - マキノ雅弘自伝』、マキノ雅弘、平凡社、1977年、p.246、p.280、p.338-374.〕が、日活太秦撮影所で渡辺邦男監督の『さくら音頭』で録音技師として再スタートしている〔マキノ雅弘 、日本映画データベース、2009年11月3日閲覧。〕。マキノは新興キネマ等で技師としてのキャリアを積み〔、1935年(昭和10年)、トーキー専門の映画会社マキノトーキー製作所を設立、安価で高品質なトーキーの製作を試みた〔。同社での全作品の録音技師をマキノが務めた〔。 日本における録音技師は、ハリウッドのシステム〔図:en:File:TSM DirectorOfSound 02.jpg参照。〕における音響監督(, Director of Sound)とプロダクション・サウンド・ミキサー()、スーパーヴァイジング・サウンド・エディター()をかねた職能である。同時録音の場合、プロダクション・サウンド・ミキサー同様、撮影クルーとともに行動し、撮影現場で録音助手に指示を出し、マイクで俳優のセリフや現場音を拾わせ、現場音も録音し、調整する。スーパーヴァイジング・サウンド・エディター同様、アフレコやダビングで音響表現を構築する中心人物である。したがって、プリプロダクション、撮影、ポストプロダクションで構成される映画製作において、撮影とポストプロダクションが活動の主たるフィールドである。オールアフレコ撮影の場合は、録音技師は存在せず、録音スタジオでのポストプロダクションで音響の完成に向かう。 日本の映画の職能においては、映画監督、撮影技師(撮影監督)、照明技師、美術デザイナー、編集技師、スクリプターとともに「メインスタッフ」にカテゴライズされる。職能団体は日本映画・テレビ録音協会であり、日本映画撮影監督協会、日本映画テレビ照明協会、日本映画・テレビ美術監督協会、日本映画テレビ編集協会、日本映画・テレビスクリプター協会とともに日本映画メインスタッフ連合会、さらに日本映画監督協会を加えて日本映像職能連合を構成している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「録音技師」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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