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鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖〔ただし正式には藩主になっていない。〕。 なお数回改名しており、本項では便宜的に後期の名乗りである直茂で統一して解説する。 == 生涯 == === 龍造寺隆信の右腕として === 天文7年(1538年)、肥前佐嘉郡本庄村の在地豪族である鍋島清房の次男として生まれる。天文10年(1541年)、主君・龍造寺家兼の命令により、小城郡の千葉胤連(西千葉氏)の養子となる。しかし天文14年(1545年)に少弐氏によって龍造寺家純らが殺され、家兼が逃亡したことにより、龍造寺氏と少弐氏が敵対関係になると、実父・清房は直茂の養子縁組を解消して実家に戻らせている。 家兼の死後、数年を経て龍造寺隆信が龍造寺氏を継ぎ、さらに隆信の生母である慶誾尼が父・清房の継室となったため〔『肥陽軍記』には記述があるが、『北肥戦誌』には見られない。〕、直茂は隆信の従弟(直茂の生母と隆信の父が兄妹。もしくは姉弟)であると同時に義弟にもなり、隆信から厚い信任を受けることとなる。龍造寺氏は直茂の働きなどもあって、宿敵の少弐氏を永禄2年(1559年)には滅亡に追いやっている。 永禄12年(1569年)、大友宗麟が侵攻して来ると、隆信に籠城を進言し、同時に安芸毛利氏に大友領への侵攻を要請した。元亀元年(1570年)の今山の戦いでは、家中が籠城に傾く中で夜襲を進言し、夜襲隊を指揮して大友親貞を撃破する。以降、龍造寺家内での存在感を大いに増した。また、この勝利を記念して、鍋島家の家紋を剣花菱から大友家の杏葉へと替えた〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)237-238頁〕。 天正3年(1575年)、少弐氏の残党を全て滅ぼし、天正6年(1578年)には肥前南部の有馬氏・大村氏らを屈服させるという功績を挙げた。そして隆信が隠居して隆信の嫡男・龍造寺政家が家督を継ぐと、政家の後見人を隆信より任された。 天正9年(1581年)に隆信と謀り、筑後柳川城主の蒲池鎮漣を肥前で謀殺し、隆信の命令で柳川城攻めをした田尻鑑種を督戦し、柳川の戦いで柳川の蒲池氏一族を殺戮し、柳川城に入った。以後、主に筑後国の国政を担当する。もちろん直茂の力への期待もあったが、奢った隆信が度々諫言を行う直茂を疎んじるようになり、筑後に回したとも言われる。 天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで隆信が島津氏に敗死すると、からくも肥前に逃げ帰り、政家を輔弼して、勢力挽回に務めた。島津氏が龍造寺氏の居城・村中城を囲んだ際、隆信の首の返還を申し出てきたが、受け取りを断固拒否し、島津氏へ強烈な敵対を示した。このデモンストレーションの後に島津氏に恭順を示したため、龍造寺氏はより良い地位を島津家中で得ることができた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鍋島直茂」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nabeshima Naoshige 」があります。 スポンサード リンク
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