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鍋島 吉茂(なべしま よししげ)は、肥前佐賀藩の第4代藩主。第2代藩主・鍋島光茂の次男。 == 生涯 == 鍋島光茂の子として生まれる。初名は矩茂(のりしげ)。 初め大叔父の神代直長の婿養子となって神代家を相続し、直利(なおとし)に改名。神代氏はもともと筑後にて大宮司を務めたという名族で、神代勝利の嫡男・勝良(長良)が鍋島直茂の弟・小河信俊(おがわ のぶとし)の子・家良(いえよし)を養子として迎えて以来鍋島一門と化しており、佐賀藩の家老を務めていた。家良から常親(つねちか)、常利(つねとし)、常宣(つねのぶ)と続いた後は鍋島本家から養子を迎えることが続き、常利が勝茂の娘を妻としていた縁により同じく勝茂の子である直長が、そして直利が神代家の当主となった。 しかし、3代藩主となっていた兄綱茂には男子に恵まれず、跡取りがいなかったため、宝永2年(1705年)にその養子に迎えられた。吉茂も同様に子がなかったため、神代家は弟の直堅が相続した。 宝永4年(1707年)に綱茂の死去に伴い家督を相続、第4代藩主となる。また、将軍徳川綱吉の偏諱と鍋島氏の通字により吉茂に改名。財政難の中、観頤荘を破却し財政改革に取り組んだ。また、十五組の軍組織を整備、年譜類の編纂事業を行う。享保11年(1726年)の火災で佐賀城が焼失した。享保15年(1730年)に65歳で死去。藩主在任中も結局子ができず、死の前に神代家を継がせていた弟の神代直堅を呼び戻して世子としており、吉茂の死後は直堅改め鍋島宗茂が家督および藩主の座を引き継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鍋島吉茂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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