|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 鍋 : [なべ] 1. (n,n-suf) saucepan 2. pot ・ 島 : [しま] 【名詞】 1. island
鍋島 茂昭(なべしま しげあき、宝永2年7月25日(1705年9月12日) - 宝暦5年8月16日(1755年9月21日))は、江戸時代中期の第25代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島十左衛門の名で呼ばれることが多い。墓は佐賀県武雄市の円応寺にある。 == 経歴 == 宝永2年(1705年)、第23代武雄領主鍋島茂紀の子として生まれる。幼名は藤九郎。享保13年(1728年)、兄の第24代武雄領主鍋島茂正(子の茂住は既に早世)が死去したため家督を相続。享保19年(1734年)、馬を好み、馬の飼育にも長けていたことから御牧方頭人を命ぜられる。 延享2年(1745年)、第6代佐賀藩主鍋島宗教が幕府に弟直鄰(主膳)の養子願いを出そうとした際、茂昭は宗教とともに江戸に在府しており、諫早茂行、蓮池藩主鍋島直恒、鹿島藩主鍋島直郷らとともに宗教を翻意させようと苦労したことが茂昭から諫早茂行や神代茂英に宛てた手紙に記されている。 しかしながら、寛延元年(1748年)、いよいよ宗教に失望した直恒に茂行も同調し、ついに宗教への隠居工作が画策される。これは、直恒が、幕府老中酒井忠恭(雅楽頭)に対し宗教が病気のため登城できないと申し出、一方で、同年11月に参勤交代で江戸に出府した宗教には老中の御内意により登城を差し控えるようにと伝え、家督を前述の宗教の弟直鄰に継がせようとするものであった。 茂昭はこの動きを察知し、同年8月江戸に上り、神代茂英らとともに、宗教隠居の画策を阻止しようと行動した結果、寛延2年(1749年)正月、宗教の隠居は取止めとなり、同月老中酒井忠恭は罷免・転封、同年12月、諫早茂行は物成4千石(知行1万石)を没収され隠居を命じられた(これが寛延3年(1750年)正月の諫早一揆につながる)。また、直恒は逼塞を命じられ、茂昭に伴われて佐賀に帰国する直前の同年10月に急死している。 茂昭は宝暦5年(1755年)8月に死去、同年10月、嫡子鍋島茂明が武雄領主の家督を相続している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鍋島茂昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|