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鍾離は、中国にかつて存在した国名・地名。 == 歴史 == 鍾離は春秋時代の小国の名。のちに楚に属した。淮河の南方にあり、現在の安徽省滁州市鳳陽県一帯に相当する。鳳陽県の臨淮鎮の東に鍾離国故城遺跡がある。その周辺で発見された青銅器の刻文に「童麗君柏」と書かれており、「童麗」は「鍾離」のことと考えられている。 春秋時代の鍾離は楚と呉の境界近くにあり、紀元前518年に呉によって鍾離は滅ぼされた〔『春秋左氏伝』昭公二十四年の記事〕。『史記』の呉太伯世家・楚世家および伍子胥列伝に伝える伝説によると、もとは鍾離と隣りあう呉の村との子供(または女)同士の争いだったのが、村どうしの戦いに発展し、最後に国どうしの戦いになったという〔なお、呉太伯世家では女同士が桑を争った話になっており、また呉と楚が逆になっている。〕。 秦が楚を滅ぼすと、鍾離を県とした。九江郡(後漢に淮南郡と改める)に属した。東晋では鍾離郡を置き、鍾離県はその郡治となった。6世紀には鍾離の戦いが起こっている。 隋以降、鍾離郡は濠州となったが(何度か鍾離郡に戻っている)、鍾離県はそのまま残った。 明の洪武2年(1369年)に鍾離県を中立県と改め、翌年臨淮県に改めた。なお、濠州は短期的に臨濠府・中立府を経て鳳陽府になっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鍾離」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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