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『鎌倉三代記』(かまくらさんだいき)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。全十段(もとは全九段)。明和7年(1770年)5月に大坂で初演されたが、この時は『鎌倉三代記』という外題ではなかった。作者については不明であるが近松半二その他と推定されている。現在は七段目にあたる「絹川村閑居」の場のみ上演される。 == あらすじ == 鎌倉時代のこと、源頼朝亡き後の北条時政は、頼朝の遺児源頼家をないがしろにして幕府の実権を握ろうとし、佐々木高綱や和田義盛、三浦義村ら有力御家人との抗争を繰り広げ、ついには戦となっていた。 (庄野宿陣所の場)庄野宿に置かれた時政の陣所では、近隣に住む百姓の藤三郎が時政の前に引き据えられていた。この男は頼家方の武将佐々木高綱に面体がそっくりで、これこそ高綱が時政を欺く変装であろうと、陪臣の富田六郎に捕らえられ連れて来られたのである。しかし藤三郎は自分はそんな者では無いと抗うので、時政は兼ねて捕らえておいた高綱の妻、篝火を引出し藤三郎に対面させる。すると篝火は籐三郎を見て高綱さまと呼びかけ、「佐々木とも高綱とも云わるる武者が、やみやみと雑兵の手にかかり給いしか」と嘆き泣き、もうこの上はともに時政の手にかかって死のうという。だがその様子を見ていた時政は、「いかに運つきればとて富田ごときの手にかかるべき高綱ではよもあるまじ」と、本来別人である藤三郎を夫と言い立て、高綱の身替りとする計略であろうと見破る。 疑いの晴れた籐三郎であったが、このままではまた高綱と間違えるだろうと、時政はこの場で藤三郎の額に、目印として刺青を入れることにした。藤三郎はもとより、夫のあとを追ってこの場に来た藤三郎の妻おくるも刺青ばかりはご勘弁をとともども訴えるも、結局藤三郎は泣く泣く刺青を額に入れられる。 一方時政には心掛かりなことがあった。時政の娘時姫は父を裏切り、敵である三浦之助義村を慕ってひとり家を出て、絹川村にいる年老いた三浦之助の母長門を看病していたのである。だがそれを聞いた藤三郎は、自分が時姫を時政のもとに連れてくると言い出し、しかもそれが成功した暁には、時姫と夫婦にさせてくれという。時政はこれを許し藤三郎に時姫奪還を命じ、雑兵用の具足と、自分の使いの者である証拠として短刀を与える。時姫を女房にするというあまりのことに腹を立てるおくるをよそに、藤三郎は具足を着用し短刀を持って絹川村へと向うのであった。 (絹川村閑居の場)絹川村の三浦之助の母長門の住いでは、主である長門が病で布団の上におり、近所の百姓の女房おらちと、藤三郎の女房おくるも来て話をしている。そこへ身分の高そうな御殿女中ふたりが侍たちを連れて現れる。ふたりは北条家の奥に仕える阿波局、讃岐局で、時姫を迎えに来たのだという。しかしその肝心の時姫の姿が見えない。どこへ行ったのかと尋ねると、長門は酒を買いに行かせたというので局たちは「テモマア興がる御有様」とあきれるところへ、時姫が道の向うから戻ってくるのが見える。局たちは侍たちに供をするよう命じるが、その侍たちに付き添われる時姫は、お盆に豆腐をのせ、酒を入れた徳利を手に提げながらやってくるのであった。 阿波局と讃岐局は時姫に、時政のもとに戻るよう説得するが時姫は聞き入れない。ならば自分たちもここに留まり、どこまでも姫にお仕えしようというと、おらちがそこにやってきて買ってきた酒を呑んだり、また時姫に飯の炊き方や味噌汁の作り方を教授しようと、局たちも交えて米を研がせたり、味噌をすらせたりするがそこは御殿育ちの面々、上手く出来ずに大騒ぎ。やがておらちは酒がなくなったので自分で買いに行こうと出て行き、時姫は長門が咳をするので、介抱しようと奥へ入った。 阿波局と讃岐局はやはりどうにかして時姫を取り返したいと案じるが、そこへ雑兵姿の藤三郎が現れる。はじめ藤三郎が時政の使いであるというのを局たちは疑うが、藤三郎が時政から与えられた刀を見せると納得し、時姫のことは藤三郎に任せてひとまずこの家を立ち退く。藤三郎は近くの物陰に隠れる。 (現行の歌舞伎ではここまでの場面は上演されず、このあとから舞台が始まる) 「されば風雅の歌人は、恋とや聞かん虫の音も、沢の蛙の声々も修羅の巷の戦いと」の浄瑠璃で、戦場で負傷した三浦之助義村が登場する。病気の母親のことを気にかけて様子を見に来たのである。三浦之助の姿を見て時姫は駆け寄り介抱する。しかし長門は障子を閉て切って会おうとはせず、武門に生まれながら戦場を離れた息子の未練を叱り、「最早この世で顔合わす子は持たぬぞ。この障子の内は母が城郭、そのうろたえた魂で、薄紙一重のこの城が、破るるものなら破ってみよ」と言い放つ。わが身を恥じた三浦之助は戦場に戻ろうとするが、時姫は「コレのう。せっかく見た甲斐ものう、もう別るるとは曲もない。親に背いて焦がれた殿御、夫婦の固めないうちは、どうやらつんと心が済まぬ」と恋慕の心を打ち明けて離さない。三浦之助は時姫が敵の娘ゆえに信用できぬと告げるが、母への孝心もあってひとまず休息しようと、姫とともに奥へ入る。 だがそのころ、家の表では阿波局、讃岐局と富田六郎が集まって時姫奪還の相談をしていた。時政は藤三郎を使いに立てたものの、やはり心もとなく思って富田をその監視に当てたのだという。そこへおくるがやってきて富田を裏口へ案内し、局たちはその場を立ち去る。 ふたたび奥から出てきた時姫がひとり思案に暮れていると、藤三郎が現れ時政から時姫を助けたら褒美に姫と夫婦にしてやるといわれ、迎えに来たのだと否応なく迫ってくるので、姫は怒って藤三郎が持ってきた短刀で切りつけようとする。驚いた藤三郎は空井戸に飛び込んでしまう。 あまりな父の仕打ちに時姫は、「明日を限りの夫の命、疑われても添われいでも、思い極めた夫は一人」と自害しようとするのを三浦之助が出てきて止め、心底見えたからには父時政を討てと命じる。「思案は如何にとせりかけられ、どちらが重いと軽いとも、恩と恋との義理詰めに、詞は涙もろともに」と姫はためらうも最後は泣く泣く承知する。それを聞いた富田六郎が注進しようとするのを、空井戸から突き出た槍に貫かれ討たれる。「重ねて申し合わせし通り計略外れず」との三浦之助の呼びかけに、槍を持って井戸から現れたのは以前の藤三郎、実は佐々木高綱であった。藤三郎はやはり高綱だったのである。 かつて高綱は藤三郎を自分の身替りに立て敵の目を欺こうとしたが、それは偽者であると露見して身を潜めることになり、また頼家方の旗色は悪くなって最早万策尽きたかに思われた。そこで高綱は最後の手段としておくるとしめし合わせ、藤三郎に成りすましてわざと富田六郎に捕まり、時政の前に出て「地獄の上の一足飛び」すなわちいちかばちかの賭けに出た。それに時政はまんまと騙されて額に刺青まで入れたので、これで誰にも高綱と疑われず自由に動くことができる。そして「百万の大軍より討ち取り難き一人を、打つ謀は姫にありと、密かに三浦へ内通し、牃し合わせし計略外れず、姫の心底極まる上は、大願成就時来たれり」と、今までの事はすべて自分の計略であったと高綱は物語る。 これで反撃の用意は整ったと喜ぶ三浦之助と高綱であったが、母長門は実の親を討たせる申し訳にとわざと時姫の手にかかる。姫と三浦之助は嘆くが、「我が子も嫁も明日は一緒に死出の露」、ふたりが来るのをあの世で待っていると言って長門は息絶え、おくるも夫藤三郎の跡を追って自害する。時姫は未練を捨てて父を討つ覚悟を固め、高綱とともに時政のいる陣所へ、三浦之助も傷ついた身体を押して勇んで戦場へと、それぞれ赴くのであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鎌倉三代記」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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