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北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏若しくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)〔桜田時厳のように、法名の場合は「じ」。〕。 == 概要 == === 起源 === 桓武平氏高望流の平直方を始祖とし、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族である。ただし、現在伝わる北条氏系図の中には時政以前の系譜において違いを見せるものもいくつか存在する。関東で成立した『源平闘諍録』では、伊勢平氏の祖・平維衡の子孫とされている。こうした史料状況から、北条氏が自家の系譜が正確に伝わる家ではなかった事を示しているとして〔細川、2011年、P26,27。〕、桓武平氏の流れであることを疑問視ならびに否定視する研究者も出てきた。家紋研究家の高澤等は、同じ三つ鱗紋を用い、北条氏のように大蛇伝説を持つ九州緒方氏の祖である大和国大神氏の一族ではないかと論考している。ただし時政の祖父が時家、父が時方(または時兼)という点は諸系図でほぼ一致しており、時家の『尊卑分脈』傍注には「伊豆介」とある。上横手雅敬は、土着したのはそう古い年代ではなく、幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのではないかと推測している〔上横手、1958年。〕。 『吾妻鏡』文治5年(1189年)6月6日条によれば、田方郡内には南条・北条・上条・中条と呼ばれる地域が並んでいたという。平安時代中期以降、律令制の郡は名田または名(みょう)といった徴税単位に細分化され、方位や区分を示す「条」と呼ぶ例が多く見られた。他の東国有力武士団である三浦氏・千葉氏・小山氏・秩父氏などは、何代か前から多くの有力な一族を各地に分派させて同族集団を形成しているが、北条氏には時政以前の分流が見られないこと、『吾妻鏡』が40歳を越えた時政に「介」や都の官位等を付けず、ただ「北条四郎」「当国の豪傑」とのみ記していること、保有武力に関しても石橋山の戦いの頼朝軍の構成を見る限り突出した戦力を有していたとは言いがたいことなどから、北条氏の勢力は決して大きくなく、伊豆においても中流クラスの存在であったとするのが一般的な見解である。一方で、北条氏の本拠は国府のある三島や狩野川流域に近接して軍事・交通の要衝といえる位置にあることから、国衙行政や交易などに長けており、所領は小さくても富強であったとする見解もある〔関、2009年。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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