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鎌倉大仏殿跡 : ミニ英和和英辞書
鎌倉大仏殿跡[かまくら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かま]
 【名詞】 1. (1) sickle 2. (2) part of a fish around the gills 
: [そう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
大仏 : [だいぶつ]
 【名詞】 1. large statue of Buddha 
大仏殿 : [だいぶつでん]
 (n) Daibutsuden
: [ほとけ]
 【名詞】 1. Buddha 2. merciful person 3. Buddhist image 4. the dead 
仏殿 : [ぶつでん]
 (n) Buddhist temple
殿 : [どの, との]
 【名詞】 1. (pol) person 2. Mister (mostly in addressing someone on an envelope) 3. Mr 
: [せき, あと]
 【名詞】 1. (1) trace 2. tracks 3. mark 4. sign 5. (2) remains 6. ruins 7. (3) scar 

鎌倉大仏殿跡 ( リダイレクト:高徳院 ) : ウィキペディア日本語版
高徳院[こうとくいん]

高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗寺院本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像(国宝)。山号は大異山。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)という。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳である。
2004年平成16年)2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された。なお、大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説ある(後述)。
現在の住職慶應義塾大学教授でもある佐藤孝雄
== 歴史 ==
高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代正徳年間(1711年 - 1716年)に江戸・増上寺祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。
吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方、『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている〔浅見(2000)、p.18〕。
『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である。
鎌倉時代末期には鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船)。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかはこれも史料がないため、不明である。
大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは、平成12年から13年(2000 - 2001年)にかけて実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている。『太平記』には、建武2年(1335年)、大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり、『鎌倉大日記』によれば大仏殿は応安2年(1369年)にも倒壊している。大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について、『鎌倉大日記』は明応4年(1495年)(明応地震#明応4年8月15日の地震)とする。(『塔寺八幡宮長帳』などの他の史料から、明応7年(1498年)9月20日の明応地震の誤記とされていたが、別個の地震があったことがわかった。)一方、室町時代の禅僧・万里集九の『梅花無尽蔵』によると、文明18年(1486年)、彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている〔大仏殿の倒壊、津波の発生年次については『日本歴史地名大系 神奈川県の地名』の「高徳院」の項による。〕。平成12年から13年(2000 - 2001年)の境内発掘調査の結果、応安2年(1369年)の倒壊以後に大仏殿が再建された形跡は見出されなかった〔「鎌倉大仏殿跡」の史跡指定時の文化庁プレスリリース()、2010年3月6日閲覧。〕。
露坐となり荒廃が進んだ大仏を、江戸中期に祐天が浅草の商人野島新左衛門(泰祐)の喜捨を得て、養国とともに復興を図る。そして鎌倉大仏の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興に成功し、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺 (鎌倉市)の「奥之院」に位置づけた〔鎌倉大仏と高徳院 〕。
鎌倉大仏が建立されている場所は、もともと長谷の「おさらぎ」という地名であった。そのため、鎌倉大仏にかぎっては「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む場合がある。また、この地に由来のある家系には「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む姓がある〔大佛次郎(作家)はそういった家系とは関係なく、鎌倉大仏の裏手に住んでいたため、このペンネームにした。〕。北条氏の庶流の中には大仏流北条氏があり、執権を出したこともある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高徳院」の詳細全文を読む




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