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鎌倉文化(かまくらぶんか)とは、鎌倉幕府の成立した12世紀末葉から幕府が滅亡した14世紀前半にかけての日本の文化。王朝国家からの自立を指向する本格的な武家政権が東国に開かれた時代であり、各方面で新しい文化的所産が生まれた。 == 概要 == 院政期文化は、京の多様な都市民や畿内周辺のさまざまな職能民などの活動を背景にしており、平泉、厳島、博多など各地に独自の文化の中心が生まれ、一方では庶民や武士の台頭を反映して、従来の王朝国家の枠をはるかにこえる多様な文化的所産がうみだされた〔網野(1997)p.94〕。 治承・寿永の乱を経て相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に本格的な武家政権が成立した鎌倉時代は、政治的にも経済的にもしだいに武家が公家(貴族)を圧倒していく時代であった。このような変動する社会の様相は、文化の面に対しても大きな影響をあたえた。 この時代にあっても、伝統文化の担い手は依然として主として平安京とその近傍に在住する公家の人びとや南都北嶺をはじめとする仏教寺院であり、彼らは同時に封建領主でもあった。しかし、地方の武士たちも、京都大番役などで上京した際には伝統文化にふれ、それを、それぞれ自らの地元にもたらすようになった。いっぽう、有力武士の援助を期待して、都から地方に下る貴族や僧侶などもあらわれた。 こうして、鎌倉をはじめ、守護の館のある国衙の周辺、有力武士の居住地、あるいは交通の要所などには、伝統文化をもとにしながらも武士や庶民の気風をも反映した、素朴で質実、かつ力強さをともなった新しい文化が育まれていった。 前代からはじまった民間相互の日宋貿易を通じ、禅宗はじめ大陸から新しい文化も伝わった。金・元の南下にともなう宋朝の衰亡に際しては、征服王朝の冷遇をきらって日本に亡命した南宋の遺民や僧侶も、新しい文化の形成に大きな役割をはたした。ことに宋風文化の導入にあたっては、「東国国家」をめざした鎌倉幕府はきわめて積極的であった〔網野(1997)pp.134-137〕。元寇後も元と民間の往来はとだえることなく、建長寺の再建費を調達するため、幕府の命をうけて1325年(正中2年)に商人が元に派遣した建長寺船をはじめ、民間の商船には多くの留学僧が便乗し、新しい中国文化の移入につとめた。 黒田俊雄によれば、鎌倉時代の文化を前半と後半に分けると、一般に前半の文化が新鮮で躍動的な印象が強く、それにくらべれば後半の文化は停滞し、「泥臭い」印象も見受けられるという〔黒田(1979)pp.221-253〕。しかし、黒田は、民族文化の形成という観点からみると重要な営為や所産が多く含まれているのが鎌倉後期の文化であると主張している〔。また、家永三郎は、鎌倉時代の文化について、歌論の登場、史論の登場、民族宗教の理論化、哲学的思索を表現した随筆文芸、朱子学の伝来の5点を掲げて、一連の理論的著作群の出現を前代と比較した場合の一大特徴であると指摘している〔家永(1982)pp.133-136〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鎌倉文化」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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