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鎌田政年 : ミニ英和和英辞書
鎌田政年[かまた まさとし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かま]
 【名詞】 1. (1) sickle 2. (2) part of a fish around the gills 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

鎌田政年 : ウィキペディア日本語版
鎌田政年[かまた まさとし]
鎌田 政年(かまた まさとし、永正11年(1514年) - 天正11年7月8日1583年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将薩摩国島津氏の家臣。別名は政房。通称は刑部左衛門、尾張守。入道名は寛栖。妻は山田有親の娘。子は鎌田政広鎌田政商
島津忠良貴久義久の3代に仕え、大隅帖佐薩摩馬越日向三ツ山、大隅牛根地頭職を歴任した。
弘治3年(1557年)の薩摩北部の豪族・蒲生範清攻め、永禄11年(1568年)の菱刈隆秋の薩摩馬越城攻めなど数々の武功のある人物だった。特に馬越城攻めの際は、島津忠良から「永久に島津家はその功を忘れぬ」とその忠功を賞されている。
元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いが起こると島津義弘と共に兵150人を率いて出陣、池島川で休憩中の日向伊東氏の将兵を攻撃、更に義弘に与えられた兵60人を率いて伊東軍の背後に回り、義弘、五代友喜の軍勢と共に3,000人の伊東軍を撃退せしめた。
天正6年(1578年)に島津氏が耳川の戦いにて大友氏に勝利すると、肥後国の豪族である城氏名和氏が島津氏に誼を通じてくる。政年はその支援として手勢を率いて肥後国へ入った。そして、天正8年(1580年)、新納忠元と共に肥後阿蘇氏領に侵攻、矢崎城熊本県宇土郡)の中村惟冬を攻めこれを討ち滅ぼした。
没日には2つの説があり、「天正11年7月8日」説と「天正15年7月10日1587年8月13日)」説がある。法名は「喜翁勝観庵主」。姶良郡牛根二川の望海山喜翁院に葬られた。
== 参考文献 ==

*『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
*『明赫記』 鹿児島県史料集(27)(鹿児島県史料刊行委員会)



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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