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鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。 == 沿革 == === 多賀 === 鎮守将軍〔なお、本来は鎮守将軍(あるいは陸奥鎮守将軍)が用いられ、「鎮守府将軍」とはいわなかった。坂上田村麻呂の頃に鎮守府が移動して陸奥国府と距離ができると「府」の字を入れ「鎮守府将軍」と呼ばれるようになったといわれているが、正史である六国史では坂上田村麻呂以後も含め「鎮守将軍」と記されている。〕の始まりを直接記した史料はないが、知られる限りでは大野東人がもっとも古く、彼が初代の鎮守将軍であったといわれている〔大野東人以前は、和銅2年(709年)3月5日に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂、同日征越後蝦夷将軍に任じられた佐伯石湯、養老4年(720年)9月29日に持節征夷将軍に任じられた多治比縣守、同日持節鎮狄将軍に任じられた阿倍駿河など蝦夷征討の将軍の記録がある(続日本紀)。〕。司令部ははじめ「鎮所」、のちに「鎮守府」と呼ばれた。神亀元年(724年)に多賀(多賀城)に城柵が築かれてからは、その地に置かれたと推定される。多賀にはまた陸奥国府が置かれていた。 鎮守将軍は、陸奥国と出羽国の両国に駐屯する兵士〔当時の朝廷の支配する地域から派遣された兵士が駐屯した。多くは上総国下総国を中心とする東国の出身であった。〕を指揮し、平時におけるただ一人の将軍として両国の北方にいた蝦夷と対峙し両国の防衛を統括した〔蝦夷征討(征夷)の際には臨時の将軍が任じられたが、大伴家持や坂上田村麻呂の場合は自身に節刀が授けられ征東将軍や征夷大将軍として征討軍を率い、陸奥按察使の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた際には、鎮守将軍だった佐伯耳麻呂は征夷副将軍になった。〕。管轄地域を同じくする陸奥守や陸奥按察使が鎮守将軍を兼ね、政軍両権を併せることもしばしばあった〔臨時の将軍の例として他に、征東大将軍の紀古佐美(『続日本紀』延暦7年12月7日条)や、征夷大将軍の大伴弟麻呂(『日本紀略』延暦13年1月1日条)があり、征東大将軍や征夷大将軍の初見とされている。これら蝦夷征討の将軍には天皇より節刀が授けられ全権を委任されていた。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鎮守府将軍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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