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鍾離 牧(しょうり ぼく、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。呉に仕えた。字は子幹。揚州会稽郡山陰県の人。父は鍾離緒。兄は鍾離駰。子は鍾離禕・鍾離盛・鍾離徇。三国志呉志に伝がある。 == 生涯 == 漢の官僚(魯国の相)鍾離意の七世の孫に当たる人物である。『会稽典録』によると、父は楼船都尉であり、兄も上計吏であった。 兄は若くから、会稽の謝賛や呉郡の顧邵と同等の名声を有していたという。それに対し鍾離牧は、幼いときから口下手で鈍間な性格だった。兄は鍾離牧が大器であると周囲に述べていた。しかし、当時の人達は誰もそれを信じようとしなかったという(『会稽典録』)。 若いときに永興へ移住し、広範囲な土地の開墾に従事した。しかし収穫の時期、現地住民の中に土地所有権を主張する者が現れたため、争いとなった。鍾離牧は抗弁もせず、その者に土地と収穫物を譲ってやった。後に県長がその住民を収監し、法による処罰を行おうとしたが、鍾離牧はあくまでその住民を庇い、山陰に引き返そうとした。このため県長は鍾離牧を引き留め、住民を釈放した。その住民が以前横領した収穫物を鍾離牧に返却しようとしたが、鍾離牧はそれを受け取ろうとしなかった。このことにより、鍾離牧は名を知られるようになった。 あるとき、陸遜が鄱陽を討伐したことがあった。鍾離牧も2000人の兵士を率いてこれに従軍したという(『会稽典録』)。 231年、潘濬が武陵蛮を征伐したとき、鍾離牧はさらに3000人の兵士を率い従軍したが、呉朝廷の決議により見捨てられ、後続の援軍を得られない状況に陥った。しかし呉朝廷の救援という英断のおかげで、生還することができたという(『会稽典録』)。 242年、郎中から太子輔義校尉に任命され、太子である孫和に仕えた。 後に昇進し、南海太守となった。赴任先では、長年反乱を続けてきた者達を忽ちの内に討伐、または心服させた。始興太守であった羊衜は滕胤に手紙を送り、その中で鍾離牧を高く評価し功績を称えたという。4年間任務についたが、病気となり職を辞した(『会稽典録』)。 その後、中央に戻り丞相長吏となった。また、司直・中書令と昇進した。建安・鄱陽・新都の三郡で反乱が起きると、監軍使者となりこれを討伐し、黄乱や常倶といった頭目を降伏させ、彼らの兵士を自らの配下に編入した。この功績で秦亭侯に封ぜられ、越騎校尉となった。 263年、蜀漢が滅亡した直後、武陵の五谿蛮族が謀反の気配を見せ始めた。このため呉朝廷では衆議が行なわれ、衆議の結果、鍾離牧が討伐の任に当たることとなった。赴任に当たり、平魏将軍・武陵太守を兼務した。魏は漢嘉県長である郭純を派遣し、仮の武陵太守に任じて、武陵蛮の反乱を誘おうとした。このため鍾離牧は高尚など諸将の反対を押し切り、積極的な武断政策を実施して、五谿蛮族が反乱しないよう迅速に平定した。これにより、公安督・揚武将軍となり、都郷侯に封じられた。 後、濡須督に転じた。濡須督であった時代、魏への積極的な侵攻作戦を秘かに計画していたが、かつて武陵蛮征伐で見殺しにされかけた経験もあり、万一の失敗を恐れて同郷の朱育に対し「上奏することはできない」と、その心中を吐露したという(『会稽典録』)。 その後、前将軍・仮節にまで至り、再び武陵太守を兼任したが、在官のまま亡くなった。死後、家には財産も残らず、周囲に遺徳を偲ばれたという。 陳寿は、鍾離牧が古人の前例をよく守った点を評している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鍾離牧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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