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長井 時広(ながい ときひろ)は、鎌倉時代前期の朝臣、武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉幕府初代政所別当大江広元の次男。兄大江親広が承久の乱で失脚すると大江氏の惣領となり幕府中枢で活躍した。 == 生涯 == 出羽国置賜郡長井荘を所領としたため、在地名を取って長井氏を称し、その祖となった。当初朝廷に仕え、建保6年(1218年)に蔵人に任じられた〔「吾妻鏡」六月小十四日条、『大日本史料』4編14冊702頁〕。そして源実朝が左近衛大将に任じられた返礼として、京都へ上った帰途の先払いとして、鎌倉へ下った。鎌倉へ戻った実朝が鶴岡八幡宮へ拝賀する際、殿上人として随行する〔「吾妻鏡」六月小二十七日条、『大日本史料』4編14冊707頁〕。7月実朝の御直衣始めに鶴岡八幡宮へ随行する〔「吾妻鏡」七月八日条、『大日本史料』4編14冊719頁〕。8月実朝に対して二階堂行村を通じて、京都への帰還を願い出るものの許されず、北条義時の執り成しでようやく許しを得た〔「吾妻鏡」八月十五日条、二十一日条〕。10月(任官名は不明なものの)任官される〔「吾妻鏡」十月十九日条〕。 建保7年1月27日(1219年2月13日)実朝が右大臣に任官され、鶴岡八幡宮へ拝賀した際随行する(このとき右衛門大夫)。ここで実朝は公暁に暗殺され、兄大江親広とともに出家する〔「福原家譜」『大日本史料』5編13冊547頁〕。承久3年(1221年)の承久の乱で、兄親広が後鳥羽上皇方に加わって失脚したため、大江氏の惣領として認められる。貞永元年(1232年)故大江広元の収集した記録文書等を北条泰時から賜る〔「吾妻鏡」『大日本史料』5編8冊460頁〕。後に備後国守護職となる。嘉禎4年/暦仁元年(1238年)に所領の米沢に米沢城を築いたとも言われる。 仁治2年(1241年)に亡くなり〔「吾妻鏡」五月二十八日条、『大日本史料』5編13冊547頁〕嫡男長井泰秀が出羽長井荘を、次男長井泰重が備後守護を継承した。 堂森善光寺には山形県指定有形文化財の伝長井時広夫妻坐像が遺っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長井時広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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