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長井時秀 : ミニ英和和英辞書
長井時秀[ながい ときひで]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [い]
 【名詞】 1. well 
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 

長井時秀 : ウィキペディア日本語版
長井時秀[ながい ときひで]

長井 時秀(ながい ときひで、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の人物、鎌倉幕府御家人〔安田、1990年、p.432 「長井時秀」の項(執筆:下山忍)。〕〔『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「長井時秀」(執筆:佐々木文昭)より。〕。長井泰秀の子〔〔。母は佐々木信綱の娘〔。妻は安達義景の娘。大江時秀とも呼ばれる〔。法名は西規〔。
== 生涯 ==
通称は太郎〔〔『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「長井時秀」の項 より。〕で、『吾妻鏡』における初見は、宝治元年(1247年11月15日条〔『大日本史料』5編23冊143頁〕〔寳治元年十一月大十五日甲子。天晴。鶴岡八幡宮放生會也。…… 後陣随兵 前大藏權少輔 城九郎 長井太郎 上野三郎 ……〕に、この日に開催された鶴岡八幡宮放生会の参列者の中で後陣の随兵の一人として挙げられている「長井太郎」である〔紺戸淳論文(『中央史学』二、1979年、p.16)。『吾妻鏡』では1257年(正嘉元年)10月1日条から「長井太郎時秀」の記載が確認できる。〕。この段階での「時秀」の掲載はないものの、通称(仮名)は元服時に名付けられるものであり〔元服にあたっては、それまでの童名幼名)が廃されて、烏帽子親から仮名(通称名)と実名(諱)が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多い(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.162)より)。〕、これ以前に元服を済ませたとみなすのが妥当である〔紺戸淳論文(『中央史学』二、1979年、p.16)。〕。長井氏大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり〔『世界大百科事典 第2版』「長井氏]」の項 より。〕、北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられ〔山野龍太郎論文(山本、2012年、p.163)。「北条氏#北条氏による一字付与について」も参照のこと。〕、足利氏でいう足利家時〔小谷俊彦 「北条氏の専制政治と足利氏」(所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』p.131)〕のように、「時」の字は北条氏得宗家当主よりその通字を受けたものと考えられる〔紺戸論文内の系図(『中央史学』二、1979年、p.15系図)では、北条泰時から一字を受けた泰秀と、北条時宗より一字を受けた宗秀との間に位置する時秀は、経時(在任:1242年-1246年)または時頼(在任:1246年-1256年)と烏帽子親子関係を結んだとしているが、生誕年は1242年とされており(別途脚注参照)、これに基づけば後者である可能性が高い。〕。
1254年建長6年)父の死の翌年には引付衆五番に任ぜられて幕政に参画し〔「吾妻鏡」12月1日条、『史料総覧』5編904冊808頁 〕〔〔、1257年正嘉元年)〔「吾妻鏡」10月30日条、『史料総覧』5編905冊23頁。〕〔山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の紛争が起きたのに伴い、大曾禰長泰とともにその調停使として上洛している(安田、1990年、p.432 /『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「長井時秀」の項)。〕を始め、1264年文永元年)〔「外記日記」「天台座主記」、『史料総覧』5編905冊97頁〕、1282年弘安5年)にも東使として京に赴いたことが解る〔「勘仲記」『史料総覧』5編905冊267頁。〕。その間、正元元年(1259年)閏10月には宮内権大輔〔「関東評定伝」『史料総覧』5編905冊39頁〕に任ぜられ、五位に叙せられた〔前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」 別表1註釈(8)(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』p.226)より。典拠は『関東評定衆伝』弘安5年条。〕ほか、1265年(文永2年)6月11日条では評定衆に新任とあり〔「関東評定伝」『史料総覧』5編905冊106頁〕〔、1271年(文永8年)には備前守となる〔。また、執権・北条氏の下で評定衆を務める身でありながら、歴代将軍藤原頼経頼嗣宗尊親王)の側近としても重用されていたようである〔。
『吾妻鏡』では文永3年(1266年)3月の評定衆結番の記事〔「関東評定伝」「続本朝通鑑」、『史料総覧』5編905冊119頁〕を最後に「長井時秀」の名は見られなくなる〔が、前述のようにその後も時宗の信頼を受けた。
建治元年(1275年)京都若宮八幡宮社の再建に当たり、御家人に費用の捻出が求められるが、鎌倉在住の長井氏は北条氏一門(500貫~200貫)、足利氏(200貫)に次いで多い、180貫の費用を提供した〔国立歴史民俗博物館所蔵「造六条八幡新宮用途支配事」、『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.390-397〕。建治3年(1277年)12月、時宗の嫡子・貞時元服に際し、時秀は湯摩杯を持参する役を務めて〔『建治三年記』12月2日条。〕その後見となった。
弘安7年(1284年)の執権北条時宗の死去を機に出家し、西規と号した〔『関東評定衆伝』弘安7年条。〕後は活動が見られなくなる〔細川、2000年、巻末基礎表P.90-91。〕が、没年は不詳である。子に宗秀があり〔安田、1990年、p.432 「長井宗秀」の項(執筆:下山忍)。〕、『吾妻鏡』の編纂者のひとりではないかと推測されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「長井時秀」の詳細全文を読む




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