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長井 泰秀(ながい やすひで、1212年(建暦2年) - 1254年1月11日(建長5年12月21日)〔安田、1990年、p.433 では1211年(建暦元年)~1253年(建長5年)12月21日(享年四十三)となっているが、史料等から厳密には本文掲載の方が正確である。〕〔『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「長井泰秀 」の項(執筆:佐々木文昭)より。〕〔『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「長井泰秀 」の項 より。〕)は、鎌倉時代中期の人物、鎌倉幕府の御家人〔〔安田、1990年、p.433 「長井泰秀」の項(執筆:下山忍)。〕。大江泰秀とも呼ばれる。 祖父は大江広元〔で、父は大江広元の次男長井時広〔〔。子に長井時秀〔安田、1990年、p.432 「長井時秀」の項(執筆:下山忍)。〕。 == 生涯 == 長井時広の嫡子〔として生まれる。のち元服に際して、北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第3代執権)の北条泰時より偏諱を受け〔紺戸論文では泰秀の元服の時期を1221年~1225年と推定してその時の得宗家当主であった泰時と烏帽子親子関係を結んだとしている(紺野淳論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・16~17)。長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり(『世界大百科事典 第2版』「長井氏 」の項)、北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられる(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.163)、→北条氏#北条氏による一字付与について)。紺戸論文(同前)では弟の泰重およびその系統も同じくその統制下にあって北条氏得宗家当主の偏諱を受けたことが言及されており、系図類で泰秀の弟として確認できる泰重・泰元・泰茂・泰経も同様とみられる。〕、泰秀と名乗る。 1221年(承久3年)承久の乱により、大江氏の嫡流であった大江親広が失脚し、父時広が大江氏の惣領となる。『関東評定衆伝』〔『史料総覧』第5編904冊798頁〕によると、1229年(寛喜元年)18歳で既に蔵人から左衛門少尉となっており、同年更に従五位下に叙爵〔された。 1232年(貞永元年)12月5日、大江広元の頃の「壽永・元暦以来京都より到来する重書並びに聞書、人々の款状、洛中及び南都・北嶺以下、武家より沙汰し来たる事の記録、文治以後の領家・地頭所務條々の式目、平氏合戦の時東士勲功の次第・注文等の文書」が分散してしまった為、北条泰時がこれを集めさせ、目録とともに父長井時広に渡した〔「吾妻鏡」1232年(貞永元年)12月5日条『大日本史料』第5編8冊460頁〕。 1234年(文暦元年)23歳で従五位上、1237年(嘉禎3年)26歳で正五位下〔〔左衛門大尉、1238年(暦仁元年)27歳で甲斐守〔という官職の昇進の早さは大江氏惣領家の嫡男として高い家格を認められていたということになる。 1241年(仁治2年)5月父・時広が死去〔「吾妻鏡」五月二十八日条、『大日本史料』5編13冊547頁〕、6月30歳にして北条経時(泰時の孫)らとともに評定衆に列せられる〔「吾妻鏡」仁治二年六月大廿八日甲申。…… 又北條左親衛幷甲斐前司泰秀等 加評定衆云々。〕〔〔〔(この翌年経時は第4代執権となるが、のち寛元4年(1246年)に死去)。その後、1247年(宝治元年)の宝治合戦などの争乱に際しては第5代執権の北条時頼(経時の弟)を一貫して支持し、幕府における長井氏の地位を確立した〔〔〔。 1254年(建長5年)12月21日死去。享年42歳。〔「吾妻鏡」十二月二一日条「前甲斐守正五位下大江朝臣泰秀卒す(年四十二)」〕〔『関東評定衆伝』建長5年条にも同様に四十二歳で死去した旨の記事がある(紺戸淳論文(『中央史学』二、1979年、p.16))。〕〔〔 子に長井時秀〔、孫が長井宗秀〔安田、1990年、p.432 「長井時秀」・「長井宗秀」の項(執筆:下山忍)。〕であり、その宗秀が『吾妻鏡』の編纂者のひとりではないかと推測されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長井泰秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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