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長井 満也(ながい みつや、1968年11月10日 - )は、日本の男性プロレスラー。本名は長井 弘和。北海道砂川市出身。 == 来歴 == 中学卒業後、スーパータイガージムに入門。インストラクターの平直行に従い、1986年にシュートボクシングへ移籍。戦績は7戦5勝2敗。後に同団体のエースとなる吉鷹弘との対戦経験を持つ。 1989年、第2次UWFに入門するが、練習中に首を負傷しその影響からデビュー出来ず、団体分裂後は高田延彦率いるUWFインターナショナルへ合流するが離脱。その後、前田日明率いるリングスに入門し、1991年8月1日、ヘルマン・レンティング戦でデビューを果たした。グリーンボーイながら同年12月7日にはジェラルド・ゴルドーと対戦し、TKO負け。敗れはしたものの高い評価を得て前途を嘱望されるが、1992年10月29日に佐竹雅昭にKO負け。以後、後輩の台頭や負傷などで精彩を欠く。1994年には「リングスはプロレスではない」との前田の発言に反発、「僕はプロレスラーです」との言動が前田の逆鱗に触れ、比叡山へ修行へ行かされる。1996年8月24日にはエース外国人選手のディック・フライにも勝利。 1997年6月、全日本キックボクシング連盟のプロライセンスを取得。9月28日には全日本キックボクシング興行に参戦し、ドゥリュー・リードに判定負け。 1997年11月20日、WORLD MEGA BATTLE TORNAMENTの2回戦で師匠である前田との試合後、リング上で前田に突如としてビンタされる騒ぎを起こす。以降、試合を行うことなく翌1998年3月にリングスを退団した。 1998年にはK-1に参戦。日本人のトップファイターである武蔵とも対戦している。1999年、佐山聡主宰の格闘技団体「掣圏道」プロレス部門に参戦。 2000年、格闘探偵団バトラーツのヤング・ジェネレーション・バトルで準優勝。全日本プロレスでは、垣原賢人と組んで世界最強タッグ決定リーグ戦に参戦、2001年は、垣原とともにアジアタッグ王座を獲得する。年末には川田利明とのタッグで、世界最強タッグ決定リーグ戦に2度目の出場し、準優勝を果たした。2002年、若手中心のリーグ戦「ジャイアント馬場杯」で優勝を果たした。数年後の全日本プロレスの世界最強タッグ前で川田利明とシングルで対戦した後、川田から「おいっ長井。オレのパートナーはお前しかいないから。待ってるぞ」とラブコールを受け、再び最強タッグに出場した。 2003年、新日本プロレスに魔界倶楽部のメンバーとして登場。当初はマスクマン「魔界5号」としてだったが、2月両国国技館のリング上で自らマスクを取った。魔界5号と名乗っていたのに週刊プロレスの選手名鑑では「本名の長井満也」を名乗ると言う嘘のつけない性格であることがわかる。魔界5号としては、魔界4号(正体は柴田勝頼)との「破悧魔王'Z(はりまおうず)」というタッグチームで活動した。魔界倶楽部解散後も反体制派についているが、リングスで一緒だった本隊の成瀬昌由の熱いアピールもあり、タッグを結成しアジア・タッグ王座も獲得している。 2006年1月、新日本プロレスを退団〔契約更改に関するお知らせ 新日本プロレス公式サイト 2006年1月31日〕。キングスロードへの参戦を表明。さらにZERO1-MAXにも進出、Y2P-160kg率いるP-Force Menの「NP5」としても活動している。DDTにも当初はケロ軍団(田中秀和、後藤達俊、長井)として参戦し、現在はポイズン澤田JULIE率いるDDT蛇界本隊の一員として活躍している。 2007年秋には、キンターマンこと金村キンタローの欠場の代役として、ミツヤーマンとしてクロダーマン(黒田哲広)とのタッグでハッスルにも登場した。 また、新日本プロレス退団組による新団体無我ワールド・プロレスリング(現・ドラディション)への参戦、後に正式入団、2009年には反乱軍を起こしドラディションで大暴れ。プロレス団体DEPにも定期的に参戦している。 2011年12月7日、ロシアのプロレス団体IWFの日本人エージェント、ウラジミール長井としてユニオンプロレス新木場大会に登場した。 2014年1月、古巣の全日本プロレスに11年ぶりに参戦。KENSOとダーク・キングダムで活躍している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長井満也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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