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長坂用水(ながさかようすい)とは、加賀藩が金沢市野田山山麓の丘陵農地の灌漑を目的に、犀川の支流である内川の中流部左岸(金沢市小原町)を取水口として、 1671年(寛文11年)に完成させた水路(疏水)であり、 長坂用水土地改良区 が管理している。 == 概要 == 長坂用水は、取水口(大淵の王連岩(ワレイワ))から野田山山麓までを、等高線に沿い、数々の谷を巻くように岩盤を穿って造った総延長84丁 (9.1km、寛文期の完成時)の水路(疏水)で、単年度で完成したと読める史料〔金沢市近世史料館、特16.63-077、加州郡方旧記〕〔金沢市近世史料館、三壺聞書〕があるが、 1667年(寛文7年)に着工し1671年(寛文11年)の春に完成したとするのが一般的である〔金沢市近世史料館、加州郡方公記〕。藩命を 受けて、石川郡押野村(現在の野々市市押野)の十村役後藤太兵衛が指揮して完成させたとされる。開発技術は辰巳用水(1632年通水)や寺津用水(1665年通水)を参考にしているとされ、平均勾配(1/300~1/400)などは辰巳用水と同様である〔長坂用水の調査研究報告書(平成17~19年度編)、平成20年3月31日、金沢大学大学院自然科学研究科〕。史跡として金沢市の文化財に指定されており〔金沢市ホームページ、最終アクセス2014年4月19日 〕、金沢疏水群の一つとして農水省の疏水百選にも数えられる用水である。 野田町の分水点からは、沼田川、朱雀川、十貫川などの農業用水に分かれて農用地へ流れ、寺町台、泉野台、長坂台、山科町、野町、地黄煎町、泉、有松、寺地などの農地を潤した後、 最後に泉用水や伏見川に合流して犀川へ注ぐ。取水口からこれらの農用地を流れる用水を含む全体を長坂用水と称する場合もある〔〕。 明治期に野田山山麓一帯が旧大日本帝国陸軍野村 (石川県)練兵場〔陸上自衛隊金沢駐屯地尚古館、野田練兵場全図、他〕に供用されたことや、昭和期以降の急激な都市化によって農用地の面積が大きく 減少したため、 灌漑用水としての役割は減少しているが、竹林を縫うように流れる用水景観には独特の風情があり、市民から親しまれている用水の一つである〔金沢用水散歩、笹倉信行、十月社、1995年(平成7年)〕。 取水口から山川(やまごう)分水槽までの長さ3.6kmの部分は、1973年(昭和48年)の第4次金沢市上水道計画工事で直線の地下隧道に短縮された 〔金沢市水道五十年史、金沢市、1980年(昭和55年)〕。 そのため、同区間の寛文期水路は廃路になっており、過去に踏査が試みられた〔長坂町の年輪、長坂第一土地区画整理組合、 1977年(昭和52年)〕が、草木の繁茂と岩盤崩落が激しく、近づくのは危険である。取水の一部は、同じく1973年(昭和48年)の工事によって山川分水槽で上水道用に分水され、地下水路を経て金沢市企業局犀川浄水場へ送水されている。 現在は、分水槽から野田町までの5.5kmのみが寛文期の様相を残している。法師山の地下に掘られた法師の隧道(総延長358m:上流部228m、下流部130m)は、 内部高さ(1.7~1.9m)が高いので大人でも立ったまま歩行が可能である。 長靴とヘルメットを装備し、懐中電灯の明かりを手掛かりに掘削のノミ跡やタンコロと呼ばれる灯明設置穴を確かめ、往時の先人達の労苦を偲びながら廻る見学会(コース:法師の水門と法師隧道下口の間の130m、長坂用水土地改良区理事長が説明役)は、小学生にも人気があり毎年参加者が絶えない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長坂用水」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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