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長孫澄(ちょうそん ちょう、生没年不詳)は、北魏末から北周にかけての軍人。字は士亮。本貫は河南郡洛陽県。 == 経歴 == 上党王長孫稚の四男として生まれた。10歳のとき、李琰之の娘を妻に迎えた。14歳のとき、父に従って征戦に赴き、智謀と武勇を示した。功績により西華県侯に封じられた。孝武帝の初年、征東将軍・渭州刺史に任じられた。 538年(大統4年)、南岐州の氐の苻安寿が北魏の統治に反抗し、武都を攻め落として、太白王を号した。長孫澄は大都督の侯莫陳順とともに苻安寿を撃破し、降伏させた。軍功により、永寧県伯の別封を受けた。まもなく覆津県侯に進んだ。 西魏の文帝が宇文泰をはじめとする諸公と宴会を開いたとき、帝は『孝経』から重要な言葉を引用してみせるよう諸公に求めた。長孫澄は「夙夜匪懈、以事一人」と応じて、宇文泰を深く感心させた。 542年(大統8年)、東魏の高歓が玉壁を包囲すると、長孫澄は宇文泰に従って玉壁の救援に赴いた。543年(大統9年)、邙山の戦いに参加して、驃騎大将軍・開府に進んだ。557年(孝閔帝元年)、北周の孝閔帝が即位すると、長孫澄は大将軍に任じられ、義門郡公に封じられ、玉壁総管となった。明帝のとき、任地で死去した。柱国の位を追贈され、諡を簡といった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長孫澄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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